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Claw of Slime (会話 | 投稿記録)
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{{単一の出典|date=2017年5月}}
{{基礎情報 軍人
| 氏名 = アーレイ・バーク
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1961年8月に海軍作戦部長退任と同時に[[退役]]。[[1991年]]に[[アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦|アーレイバーク級駆逐艦]]の[[アーレイ・バーク (ミサイル駆逐艦)|1番艦]]がバークにちなんで存命中に命名された。1996年1月1日に[[ベセスダ (メリーランド州)|ベセスダ]]の海軍病院で没した。94歳。バークが死去した際には哀悼の念を表するため、就役済の全アーレイバーク級駆逐艦が1分間、31ノットで航行した。
 
== 嫌日家から親日家へ ==
太平洋戦争終戦後、暫くはかつての敵であった日本人に対し否定的な感情を持っていた。公の場で日本人を「[[ジャップ]]」「黄色い猿ども」と侮蔑的に呼び、露骨に日本人を蔑み嫌う等、反日的・嫌日的な態度を取っていたが、ふとしたきっかけで元海軍中将[[草鹿任一]]と知り合い親交を持つようになると、以前とはうって変わって[[親日家]]となり、日本が早く占領状態から解放されるように軍人の立場から尽力、[[海上自衛隊]]の創設に協力することとなる。<ref>阿川尚之著『海の友情、米国海軍と海上自衛隊』(中公新書2001年)</ref>この功により1961年に[[勲一等旭日大綬章]]を授与された。他にも生前の様々な功績により、アメリカはもちろん各国から数多の[[勲章]]を授与されていたが、バークの遺志により、葬儀で遺体の胸につけられていたのは日本の旭日大綬章ただ一つだけであった<ref>阿川尚之『海の友情 米国海軍と海上自衛隊』(中公新書、2001年)</ref>。そのため、ワシントンにある海軍博物館のバークに関する展示には、各国から授与された勲章は展示されているが、日本から受勲された旭日大綬章の実物だけは抜けた形となっている。
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== 親日家になった理由として伝わる逸話 ==
部下からかつての敵、ラバウル方面海軍最高司令官の草鹿中将が[[公職追放]]により、鉄道工事現場で[[ツルハシ]]を持って[[糊口]]を凌いでいるという話を耳にする。「飢えさせておけ」と答えてみたものの、同じ立場にあった軍人として居ても立ってもいられなくなり、匿名で食料を送る事にした。すると数日後、草鹿本人が怒鳴り込んで来た。「侮辱するな!アメリカ人の世話にはならない!」それだけ言って怒りながら出て行った草鹿にバークは好感を持った。自分が草鹿の立場だったら、同じ事をしたに違いないからだ。
 
バークが後日改めて草鹿を他の海軍提督達と共に帝国ホテルの食事に招待した時、草鹿が一番英語が達者なのに驚いた。和んだ食事会の最後で草鹿が「親切なバーク氏と自分が任務を全うしなかった事に乾杯しよう。任務を全うしていたらバーク氏は死に、今日の美味しいステーキは食べられなかった」と言うと負けじと「私も任務を全うしなかった事に乾杯しよう。任務を全うしていたら草鹿氏は死に、今日の美味しいステーキは誰も食べられなかった」と答えた。<ref>阿川尚之著「海の友情」(中公新書)</ref>
 
東日本大震災における[[トモダチ作戦]]に従事した空母「[[ロナルド・レーガン (空母)|ロナルド・レーガン]]」の艦長トム・バーク大佐は彼の孫に当たると日本のテレビ番組で放送されたが間違い。ファミリーネームが同じだけで血縁関係は無い<ref>[[在日米軍|在日米海軍司令部]] [https://twitter.com/CNFJ/status/712483161586999296 米海軍に関する都市伝説(その3)]</ref>
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== 受章歴 ==
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* [[レジオン・オブ・メリット]]
* [[パープルハート章]]
 
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==