「マトリョーシカ人形」の版間の差分

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パリ万博以前の歴史はそう古くはないようだが、そのルーツとなるものはいくつかの説が挙げられている。
# 1890年代半ば、モスクワ郊外に住むS. I. マーモントフ夫人と画家S. V. マリューチンとザゴルスクのろくろ師V. ズビョズドチキンによって、モスクワの工房「子供の教育」で制作されたという説。
# 19世紀末、[[神奈川県]][[箱根町|箱根]]にあった[[正教会|ロシア正教会]]の避暑館にやってきたロシア人[[修道士]]が、本国への土産に持ち帰った組子細工(箱根細工の入れ子人形([[こけし]]・[[だるま]]・[[七福神]]がマトリョーシカのもとになったという説<ref>[[沼田元氣]] 「こけし ロシア旅する」 [[日本経済新聞]] 2013年11月14日</ref><ref>ソビエト社会主義共和国連邦駐日大使館広報部『今日のソ連邦』1984年12月1日</ref>という説
# 愛媛県・松山捕虜収容所で[[日露戦争]]の捕虜となったロシア兵が、愛媛の郷土玩具の一つ、[[だるま#.E5.A7.AB.E3.81.A0.E3.82.8B.E3.81.BE|姫だるま]]をまねて作ったという説。
しかし、[[日露戦争]]は[[1904年]]から[[1905年]]の出来事であるため、3の説は1900年にパリ万博でマトリョーシカ人形が銅メダルを獲得している事実と明らかに矛盾する。日本ユーラシア協会では、1・2の説を採用している(外部リンク参照)。