「マクシミリアン (メキシコ皇帝)」の版間の差分
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| 在位 = [[1864年]][[4月10日]] - [[1867年]][[5月15日]]
| 戴冠日 = [[1864年]][[4月10日]]
| 別号 = [[オーストリア大公]]<br
| 全名 = {{lang|es|Fernando Maximiliano José María}}<br>フェルナンド・マクシミリアーノ・ホセ・マリア<br>{{lang|de|Ferdinand Maximilian Joseph Maria}}<br>フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1832|7|6|no}}
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==オーストリア海軍での軍歴==
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[[1852年]]にブラジル皇女[[マリア・アメリア・デ・ブラガンサ]]と婚約するも、[[1853年]]にマリア・アメリアは病死。翌[[1854年]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国海軍|オーストリア海軍]]の司令長官となる。
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===ロンバルディア・ヴェネツィア副王===
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フェルディナント・マクシミリアンは政治的には、当時流行していた進歩思想の影響を受けていた。彼は[[自由主義]]の意見の持ち主であり、これによって[[1857年]]2月に[[ロンバルド=ヴェネト王国]]の[[副王]]に任命された。
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===メキシコ帝冠受諾===
{{See also|
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1859年、フェルディナント・マクシミリアンは[[:w:Mexican Nobility|メキシコ貴族]]からなるメキシコ王党派との最初の接触をもった。王党派は地方貴族ホセ・パブロ・[[:w:Martínez del Río|マルチネス・デ・リオ]]に率いられ、彼らはメキシコ皇帝になるよう申し出た。1861年10月20日のパリでは、マクシミリアンはグティエレス・デ・エストラから、メキシコの皇位を受けるようにとの手紙を受け取った。
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しかしフランスのメキシコ出兵の後、ナポレオン3世の圧力の下、[[:w:Élie-Frédéric Forey|エリー・フレデリック・フォレー]]将軍のメキシコシティ攻略と帝国設立の布告を確認する国民投票(この投票は「フランス軍が占領している地域のほとんど」で行われたが、マクシミリアンには投票の胡散臭さは伝えなかった)の後、[[1863年]]10月に彼はメキシコ帝冠を受諾した。
兄フランツ・ヨーゼフ1世はマクシミリアンの決意に迷いを見せ、それまで弟には後継者たる権利がないことをしばしば言い含めていたにも関わらず
===メキシコ皇帝としての治世===
{{See also|メキシコ帝国|メキシコ第二帝政}}
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1864年4月、フェルディナント・マクシミリアン大公はオーストリア海軍少将の職を辞した。彼はトリエステから[[:w:SMS Novara (1850)|ノヴァラ]]号に乗船し、フリゲート艦「ベローナ号」(オーストリア)と 「テミス号(''Themis'')」(フランス)とを従えて皇帝のヨット「ファンタジー号(''Phantasie'')」はこれらを導きミラマール宮殿を出港した<ref>Haslip, Joan, ''Imperial Adventurer – Emperor Maximilian of Mexico'', London, 1971, ISBN 0-297-00363-1</ref>。彼らは教皇ピウス9世の祝福を受け、ヴィクトリア女王は[[ジブラルタル海峡]]を通過するマクシミリアンを乗せた艦隊に祝砲を打つように命令した。
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彼はまた[[クエルナバカ]]に離宮を求めた。皇帝夫妻は[[メキシコシティ・メトロポリタン大聖堂]]での戴冠式を計画したが、政情不安のせいで、挙行されることはなかった。マクシミリアーノ1世は貧民の生活環境と上流階級の壮大なアシエンダの格差に衝撃を受けた。皇后カルロータは貧しい人々のために富裕層から金を集めるためのパーティを主催した。マクシミリアーノ1世の皇帝としての最初の法律のひとつは、労働時間の制限と児童の労働の禁止である。彼は、10[[ペソ]]以上の農民の借金を全て帳消しにする「徳政令」を出したほか、公共財産を回復させ、いかなる体罰も禁止した。彼はまた、[[アシエンダ]]の独占を廃し、今後は貧民が借金のかたに人身売買されないようにした。
皇帝夫妻には子供がいなかったため、二人は{{仮リンク|アグスティン・デ・イトゥルビデ・イ・グリーン|en|Agustín de Iturbide y Green}}とそのいとこ{{仮リンク|サルバドル・デ・イトゥルビデ・イ・マルサン|en|Salvador de Iturbide y Marzán}}を養子にした。二人とも1820年代の短命なメキシコ帝国の皇帝[[アグスティン・デ・イトゥルビデ|アグスティン1世]]の孫であった。二人は養子たちに「殿下」の称号とプリンスの位を与え、彼を王朝の跡継ぎとしたが、王家の血が流れていない彼ら二人には帝冠を与えるつもりはなかった
| title = Presidentes de México | author = José Manuel Villalpando, Alejandro Rosas | publisher = Grupo Planeta Spain | year = 2011 | isbn = 9786070707582 | pages = pages are not numbered | url = http://books.google.es/books?id=H2TbqVzLhOYC&pg=PT326&dq=Agust%C3%ADn+de+Iturbide+y+Green&hl=en&sa=X&ei=sNS_T96rIpKXhQfii7mBCg&ved=0CGUQ6AEwCg#v=onepage&q=Agust%C3%ADn%20de%20Iturbide%20y%20Green&f=true }}</ref>。 保守派同盟の狼狽に対して、マクシミリアーノ1世はフアレス政府によって提案されている[[自由主義]]政策のいくつかを支持した-[[農地改革]]、信仰の自由、投票権の大土地所有者以外への拡大などである。はじめ、マクシミリアーノ1世はフアレスに帝国に忠誠を誓うなら恩赦し、首相に任命すると提案したがフアレスは拒絶した。のちに、マクシミリアーノ1世は捕えたフアレス支持者を射殺するよう命令を出し、その報復として共和派は帝国の支持者をすべて処刑した。結局、これは彼の政権をかえって悪化させる戦略的誤りになることが証明された。
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===陥落===
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しかし、メキシコ国民からの支持が得られなかったこと、南北戦争を終えた合衆国が[[モンロー主義]]に基づきマクシミリアーノ1世の即位に反対したこと、マクシミリアーノ1世自体が自由主義的思想を有しており、メキシコの保守派とも良好な関係を築けなかったことなどから、彼の地位は当初より非常に脆いものであった。さらに、ヨーロッパ本国で[[プロイセン王国|プロイセン]]が急速に強大化したため、フランスはメキシコ問題に拘泥することを望まなかった。そのため、メキシコの自由主義勢力が勢力を挽回させて保守派を破ると、ナポレオン3世はメキシコ支配をあきらめてフランス軍を撤退させてしまった。
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==埋葬==
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処刑後、遺体は[[エンバーミング|防腐処理]]されてメキシコで公開された。ほどなくして、オーストリアのヴィルヘルム・フォン・テゲトフ提督が「ノヴァラ号」で遺体をオーストリアに戻した。トリエステ到着後に棺はウィーンに運ばれて、1868年1月18日に[[カプツィーナー納骨堂]]に埋葬された。
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|1= 1. '''マクシミリアン (メキシコ皇帝)'''
|2= 2. [[フランツ・カール・フォン・エスターライヒ]]
|3= 3. [[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー・フォン・バイエルン]]
|4= 4. [[フランツ2世]]<br
|5= 5. [[マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン]]
|6= 6. [[マクシミリアン1世 (バイエルン王)]]
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|14= 14. [[カール・ルートヴィヒ・フォン・バーデン]]
|15= 15. [[アマーリエ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット]]
|16= 16. [[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)]]<br
|17= 17. [[マリア・テレジア]]<br
|18= 18. [[カルロス3世 (スペイン王)]]
|19= 19. [[マリア・アマリア・フォン・ザクセン]]
|20= 20. [[カルロス3世 (スペイン王)]] (=18)
|21= 21. [[マリア・アマリア・フォン・ザクセン]] (=19)
|22= 22. [[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)]] (=16)<br
|23= 23. [[マリア・テレジア]] (=17)<br
|24= 24. [[クリスティアン3世 (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公)]]
|25= 25. [[カロリーネ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケン]]
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== 関連項目 ==
{{commonscat|Maximilian I of Mexico|マクシミリアーノ1世}}
* [[レフォルマ戦争]]
* [[メキシコ出兵]]
* [[メキシコ帝国]]
* [[フランツ・グリルパルツァー]]
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{{先代次代|[[メキシコ皇帝]]|1864年 - 1867年|[[アグスティン・デ・イトゥルビデ|アグスティン1世]]|―}}
{{先代次代|[[メキシコ]]の国家元首|1864年 - 1867年|[[フアン・ネポムセノ・アルモンテ]]<br
{{Normdaten}}
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