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→‎略年表: 1911年に投獄の事実なし
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==== 朝鮮戦争期の政争 ====
朝鮮戦争の最中でも李は野党の弱体化を目論見、野党の[[民国党]]のスポンサー的存在だった湖南財閥の中核・[[京紡|京城紡織]](京紡)の預金引き出しを停止する。このため京紡は李派に資金供給先を変更し、民国党は強力な経済的基盤を失うこととなる<ref>木村幹、前掲書、第3章第5節。</ref>。
 
[[1952年]]1月18日には[[李承晩ライン]]を宣言した。このラインが撤廃([[日韓基本条約]])されるまでの13年間に日本漁船の捕獲事件など日本人抑留者は3929人、死傷者は44人を数え、人間として満足な生活をする権利すら与えられず、家族が送ってくる差し入れ品すら韓国警察によって中身が抜かれて届かなかったりした。当時、李が語った「アメリカは余り信じるな。ソ連の奴らには騙されるな。日本は必ず再起する。注意せよ!」が韓国で流行語になった<ref>[http://ironna.jp/article/2232]</ref>。
 
同年には再び議会との対立が激化したが、政府は釜山に逃亡していた。任期切れを控えていた李は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を提出した。これに対抗して野党は議院内閣制案を提出した。李は戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙した([[釜山政治波動]])。

[[1952年]][[7月4日]]、国会が警察に包囲されている中、与党議員がほとんどを占めている国会で改憲案は可決された。大統領の選出は直選制となった。この頃までに李派は[[自由党 (大韓民国)|自由党]]を組織している。この時期、アメリカは戦時下において議会との対立を解消できない李の排除を考え始めたと言われている。[[国民防衛軍事件]]や[[居昌良民虐殺事件]]によって[[国陸軍]]本部では李に対する反感が高まっていた<ref>[http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=48841&thread=15]</ref>。
 
朝鮮戦争初期に大韓民国に侵入した[[朝鮮人民軍]]兵士は、その後、韓国内で[[ゲリラ|パルチザン闘争]]を繰り返した。同じ[[朝鮮民族]]によるパルチザン闘争の衝撃は強く尾を引いた。また、李が傷病兵の慰問としてある病院を訪れた時、その中に韓国出身の[[在日朝鮮人]]の[[義勇兵]]が混ざっていた。
 
一方で李は[[1953年]][[1月5日]]から[[1月7日]]までの間、[[国連軍]]総司令官[[マーク・W・クラーク]]大将の招きの形で非公式に訪日し<ref group="註釈">それ以前にも、[[1948年]][[10月19日]]と[[1950年]][[2月16日]]の二度にわたって、非公式に日本を訪問している。</ref>、1月6日にクラークの公邸で[[吉田茂]]首相と約1時間対談した。内容は未だに明らかではないが険悪なやり取りであったとされる<ref group="註釈">[[吉田茂]]の著書『回想十年』等では、出ていないが、{{要出典|範囲=「世界で最も嫌いな人物が3人いる。[[スカルノ]]([[インドネシア]]大統領)、[[河野一郎]](ライバルの[[党人派]]政治家)、李承晩だ」と近くにいた人物に述べたとされる。|date=2016年1月}}</ref>。
 
[[1953年]]、戦況が膠着した朝鮮戦争について、[[国際連合]]主導による[[休戦]]提案が出始めると、李は「停戦反対、[[北進統一]]」、「休戦は国家的死刑」を口にし最後まで休戦に反対し、「[[北進統一]]論」に基づいた朝鮮半島の大韓民国による統一にこだわった。しかし国際連合は、粛々と休戦への道筋を作り、[[6月8日]]に両軍の捕虜送還協定が締結された。
 
[[6月18日]]に、李はアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令して、抑留していた朝鮮人民軍捕虜2万5000人を北へ送還せずに韓国内で釈放する<ref group="註釈">同じ捕虜の解放とは言え、「送還」だと韓国が自らの責任を持って捕虜を北へ帰還させるのに対し「釈放」だと捕虜の本国への帰還が義務化されない。{{要出典|範囲=李としては北の体制に否定的だった捕虜は自国内に止めて支持基盤に加えたかったと言われている。|date=2017年9月}}</ref>という事件を起こした。
 
[[1953年]]、膠着した朝鮮戦争について[[国際連合]]主導による[[休戦]]提案が出始めると、李は「停戦反対、[[北進統一]]」、「休戦は国家的死刑」を口にし最後まで休戦に反対し、「[[北進統一]]論」に基づいた朝鮮半島の大韓民国による統一にこだわった。しかし国連は粛々と休戦への道筋を作り、[[6月8日]]に両軍の捕虜送還協定が締結された。[[6月18日]]に李はアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令して、抑留していた朝鮮人民軍捕虜2万5000人を北へ送還せずに韓国内で釈放する<ref group="註釈">同じ捕虜の解放とは言え、「送還」だと韓国が自らの責任を持って捕虜を北へ帰還させるのに対し「釈放」だと捕虜の本国への帰還が義務化されない。{{要出典|範囲=李としては北の体制に否定的だった捕虜は自国内に止めて支持基盤に加えたかったと言われている。|date=2017年9月}}</ref>という事件を起こした。正式に決まった協定を反故にする暴挙だったことから国際世論の非難が高まった上に、北朝鮮内の中国人義勇兵([[中国人民志願軍|抗美援朝義勇軍]])の全面撤兵を李は要求し、早期休戦を望む国連軍やアメリカと激しく対立した。[[7月16日]]のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』は以下の様に報じている。
{{Quotation|ここ3年というものは李承晩について聞いたことがなかった。3年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。……ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、「国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない」と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ。|[[神谷不二]]『朝鮮戦争』}}
しかし、あまりにも尊大で強引な李は、件の捕虜釈放事件で孤立することになった。
 
李はやむなく休戦に同意し、[[1953年]][[7月27日]]に大韓民国の政府要人が署名しないまま、[[中朝連合軍]]代表の[[南日]][[朝鮮人民軍]][[大将]]と[[国連軍]]代表の{{仮リンク|ウィリアム・ケリー・ハリソン・ジュニア|label=ウィリアム・ハリソン・ジュニア|en|William Kelly Harrison, Jr.}}[[アメリカ軍]][[中将]]が[[朝鮮戦争休戦協定]]に[[署名]]した。
 
朝鮮戦争休戦後も李は[[アメリカ合衆国議会]]に出向き、再び「[[北進統一]]」を訴えたが、もはや彼の言葉に耳を貸す者は誰もいなかった。
 
=== 朝鮮戦争休戦以後 ===