「ポツダム」の版間の差分

面積の更新他
(ベルリンが首都になったのは20世紀ではありません。裁判所についてもどの裁判所なのか不明ですので削除しました。姉妹都市を更新しました。)
(面積の更新他)
| 標高: || 海抜 35 m
|- style="background: #ffffff;"
| 面積: || 187188.2761 km²
|- style="background: #ffffff;"
| 人口: || {{PopSet|GER-BB|12054000}}<ref name="Pop">{{Population GER-BB| 12054000 |SOURCE}}</ref>
|- style="background: #ffffff;"
| 人口密度: || {{formatnum:{{#expr:{{Population GER-BB| 12054000}}/187188.2761 round 0}}}} 人/km²
|- style="background: #ffffff;"
| 郵便番号: || 14401–14482
| ウェブサイト: || [http://www.potsdam.de/ potsdam.de]
|- style="background: #ffffff;"
| 首長: || {{illm|ヤン・ヤーコプス (|de|Jann Jakobs)}}([[ドイツ社会民主党|SPD]])
|-
! colspan="2" | 州内の位置
|}
 
[[ファイル:Potsdam - Schloss Sanssouci.jpg|thumb|300px|サンスーシ宮殿]]
[[ファイル:Orangerieschloss November 2013 07.jpg|サムネイル|左|オランジェリー宮殿]]
 
'''ポツダム'''({{Lang|de|Potsdam}})は、[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]東北部に位置する郡独立市。[[ブランデンブルク州]]の郡独立市、州都である。人口は約{{formatnum:{{#expr:{{Population GER-BB| 12054000}}/10000 round 0}}}}万人。旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]領。東ドイツ時代は、ポツダムを県都とする[[ポツダム県]]が置かれていた
 
[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]時代は、ポツダムを県都とする[[ポツダム県]]が置かれていた。
 
== 地勢・交通 ==
ドイツの首都[[ベルリン]]の西南近郊位置し、ベルリンの中心街から約26kmである。ベルリンからとは[[ベルリンSバーン|Sバーン]](近郊列車)で行くことがも結ばれている。[[ハーフェル川]]が流れ、いくつかの互いにつながった湖がある。
 
== 歴史 ==
[[タキトゥス]]によれば、[[青銅器時代]]は[[ゲルマニア]]の一部であった。[[ゲルマン民族]]の[[民族移動時代]]後、[[スラヴ人]]が[[7世紀]]頃にHevelli部族の移住とし入って来た。[[神聖ローマ帝国]]皇帝[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]はその土地を[[クヴェードリンブルク]]の修道院に授与した際、初めて[[993年]]の文献にPoztupimiとして初めて記述されている<ref>August Kopish, "Die Königlichen Schlösser u. Gärten zu Potsdam", Berlin, 1854, p. 18 </ref>。[[1317年]]までは小さな町として記述されていた。[[1345年]]に都市特権を得た。[[1573年]]のポツダムは、人口20002,000人程度の小さな市場町であった。[[三十年戦争]]によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。
 
ポツダムの命運が劇的に変わったのは、[[1660年]]に[[ブランデンブルク=プロイセン]]の[[選帝侯]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の狩猟館として選ばれてからである。その後、[[ホーエンツォレルン家]]の宮殿が置かれるなど[[プロイセブラ公領|デンブルク=プロイセン公国]]の拠点の一つとして発展した。[[1685年]]、[[フランス]]で[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が[[ナントの勅令]]([[1598年]]に定められていた宗教寛容令)を廃止して[[ユグノー]]の迫害を図ると、プロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルムは{{仮リンク|ポツダム勅令 (プロイセン)|en|Edict of Potsdam|label=ポツダム勅令}}を発した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、[[ロシア]]、[[オランダ]]、[[ボヘミア]]などから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。
 
その後、街は[[ホーエンツォレルン家|プロイセン王家]]の居住地となった。王家の壮大な建造物は、[[18世紀]]半ば、主に[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、[[庭園]]と[[ロココ様式]]の内装で有名な[[サンスーシ宮殿]]である。他には、{{illm|新宮殿 (ポツダム)|en|New Palace (Potsdam)|label=新宮殿}}や{{illm|オランジェリー宮殿|en|Orangery Palace}}がある。
 
===20世紀===
戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。1933年3月5日の[[国会 (ドイツ)|国会]]開会式はこの地の{{仮リンク|衛戍教会 (ポツダム)|de|Garnisonkirche (Potsdam)|label=衛戍教会}}で開会され、この日は[[ナチス・ドイツ]]時代の始まりを象徴する日として「[[ポツダムの日]]」と呼ばれた。
 
[[1945年]]4月14日から15日には大規模な空襲に見舞われた({{仮リンク|ポツダム空襲|de|Luftangriff auf Potsdam}})。[[第二次世界大戦]]においてドイツが降伏した後、[[ツェツィーリエンホーフ宮殿]]で[[アメリカ合衆国|米]]、[[ソビエト連邦|ソ]]、[[イギリス|英]]の3首脳が集まり[[ポツダム会談]]が行われた。この会談でドイツをふくめたヨーロッパなどの戦後処理を決定する[[ポツダム協定]]が成立し、また会議日程中には[[大日本帝国|日本]]に対する[[降伏]]勧告・'''[[ポツダム宣言]]'''が発された。
 
[[1945年]]、4月14日から15日には大規模な空襲に見舞われた({{仮リンク|ポツダム空襲|de|Luftangriff auf Potsdam}})。[[第二次世界大戦]]においてドイツが降伏した後、こ都市の[[ツェツィーリエンホーフ宮殿]]で[[アメリカ合衆国|米]]、[[ソビエト連邦|ソ]]、[[イギリス|英]]の3首脳が集まり[[ポツダム会談]]が行われた。この会談でドイツをふくめたヨーロッパなどの戦処理を決定する[[ポツダム協定]]が成立しまた会議日程中には[[大日本帝国|日本]]に対する[[降伏]]勧告・'''[[ポツダム宣言]]'''が発された。その後日本がポツダム宣言を受諾したため、日本の降伏に関する言葉にしばしばポツダムが使用される([[ポツダム命令]]、[[ポツダム少尉|ポツダム進級]])。
 
[[1991年]]に[[ポツダム大学]]が創された。
 
== 政治 ==
== 観光 ==
[[ファイル:Potsdam view from above.jpg|thumb|300px|ハーフェル川に繋がる湖]]
[[1745年]]に[[プロイセン王国]]の[[フリードリヒ大王]]が造営した夏の[[離宮]]、[[サンスーシ宮殿]]や、[[第二次世界大戦]]末期の1945年に[[ポツダム会談]]が行われた[[ツェツィーリエンホーフ宮殿]]などが、[[1990年]]に「[[ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群]]」として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)に登録された。
 
== 関連 ==