「マグヌス・エーレンドソン」の版間の差分

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[[Image:Domkirka statuer 37.jpg|thumb|聖マグヌス像、[[ニーダロス大聖堂]]([[トロンハイム]])]]
 
'''聖マグヌス'''(Saint Magnus)または'''オークニー伯マグヌス・エーレンドソン''' (Earl Magnus Erlendsson of Orkney)([[1075年]] - [[1115年]])は、[[スコットランド]]に属する[[オークニー諸島|オークニー]]伯。1108年から1115年までその位にあった。彼の物語は二つの[[サガ]]となり、「マグヌス・サガ」、「レジェンダ・デ・サンクト・マグノ」として残っている。「'''マグナス・エーレンドスン'''」とも呼ばれる。
 
彼の祖父であるオークニー伯トールフィンには、エーレンドとポールという双生児の息子たちがいた。彼の妻インギビオルグの父親の名前はフィン・アルネッソンといい、[[ノルウェー]]王[[オーラヴ2世 (ノルウェー王)|オーラヴ2世]]と[[ハーラル2世 (ノルウェー王)|ハーラル2世]]の血を引いていた。
 
==生涯==
マグヌスはエーレンド・トールフィンソンの息子として生まれ、父エーレンドは最初[[マグヌス3世 (ノルウェー王)|マグヌス3世]]の臣下だった。マグヌス3世は1098年にオークニーの所有権をエーレンドとポールの兄弟から取り上げた。ポールの息子ホーコン・ポールソンはノルウェー王子シグルドの摂政となり、彼は1105年にオークニー伯となった。オークニーのサガによると、マグヌスは敬虔で柔和であるという評判の持ち主で、その信仰ゆえに[[ヴァイキング]]が荒らす[[アングルシー島]]での戦闘を拒み、[[ノース人]]に経歴を抹消されてしまったという。彼は[[スコットランド王国|スコットランド]]への亡命を強いられたが、1105年に帰還し従兄ホーコンから継承権を奪い取った。認可がうまくいかなかったため、彼はエイステン2世王の助けを借り、伯領を1114年までホーコンと友好的に共同統治を行った。
 
2人の共同統治が崩壊すると、双方は[[メインランド島]]で戦闘を開始した。和平を交渉するため、2人の伯爵は互いに2隻の船のみを連れてエギルセー島で面会した。マグヌスは1115年4月16日に2隻の船で到着したが、ホーコンは8隻の船を引き連れるという裏切り行為を行った。マグヌスは捕らえられ、亡命するか幽閉されるかの選択を迫られた。しかしオークニー諸島の族長らによる評議会は、一方の伯爵の死を求めた。ホーコンの使者オフェイグはマグヌスの処刑を拒み、怒ったホーコンは自分の料理人リフォルフに命じ、マグヌスの頭を斧で切り落とさせた。マグヌスは初め、死刑執行人たちの魂のため祈ったという。彼の亡骸は殺された場所に埋葬された。彼の伝説によると、墓の周囲の岩石地は奇跡のように緑地となった。のち、マグヌスの母トーラは、息子を教会へ埋葬したいとホーコンの許可を仰いだ。ホーコンはそれを許し、マグヌスはバーセーのキリスト教会に埋葬された。