「名誉革命」の版間の差分

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== 無血革命 ==
* 文中の暦日は[[グレゴリオ暦]]による。また、新教国であるイングランドやオランダで当時用いられていた[[ユリウス暦]]による月日を()内に適宜付記する。なお、当時のイングランドにおいてはユリウス暦の年初は3月25日であった。
 
=== 渡海準備 ===
1688年[[6月30日]]、ジェームズ誕生に危機感を抱いた7人の貴族(シュルーズベリー伯[[チャールズ・タルボット (シュルーズベリー公)|チャールズ・タルボット]]、[[デヴォンシャー公|デヴォンシャー伯]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (初代デヴォンシャー公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ]]、ダンビー伯[[トマス・オズボーン (初代リーズ公)|トマス・オズボーン]]、ラムリー男爵[[リチャード・ラムリー (初代スカーバラ伯)|リチャード・ラムリー]]、ロンドン主教[[ヘンリー・コンプトン]]、[[エドワード・ラッセル (初代オーフォード伯爵)|エドワード・ラッセル]]、[[ヘンリー・シドニー (ロムニー伯)|ヘンリー・シドニー]])から招請状を受けたウィレム3世はイングランド議会の要請に同意、軍備の充実及びオランダの守備とフランスの動向を見極めてからにした。フランスに不在中のオランダを攻め込まれる恐れがあったからである。
 
7月から準備が始まり、9月にウィレム3世は各ドイツ諸侯を訪問して援軍提供を取り付け、オランダの防衛は[[ヴァルデック侯国|ヴァルデック侯]][[ゲオルク・フリードリヒ (ヴァルデック=アイゼンベルク侯)|ゲオルク・フリードリヒ]]に任せて自ら遠征に向かうことにした。ルイ14世は[[9月25日]]にドイツのプファルツを含む[[ライン河]]方面にフランス軍を差し向けて[[大同盟戦争]]を始め、ウィレム3世はフランス軍のオランダへの即時遠征がないと判断し、[[9月29日|29日]]に[[ホラント州]]でイングランド遠征計画を発表した。ホラント州は遠征計画に賛成、[[10月8日]]に連邦議会も全会一致で賛成した。[[10月9日|9日]]にウィレム3世は上陸は英国国民の権利を回復するものであるという趣旨のパンフレットを大量に印刷して極秘に保管し、着々と上陸の準備を整えていったのだ。
 
遠征軍はウィレム3世が司令官で副司令官は[[フレデリック・ションバーグ (初代ションバーグ公爵)|フレデリック・ションバーグ]]が務め、艦隊司令官は[[アーサー・ハーバート (初代トリントン伯爵)|アーサー・ハーバート]]が選ばれ、招請状を送った7人の内シュルーズベリー・ラッセル・シドニーの3人が同行、1686年から挙兵を訴えていた[[チャールズ・モードント (第3代ピーターバラ伯)|チャールズ・モードント]]やスコットランド人聖職者の[[ギルバート・バーネット]]、腹心で遠征の準備を整えていた[[ウィリアム・ベンティンク (初代ポートランド伯)|ウィリアム・ベンティンク]]も遠征に加わり、残りの招請者はイングランドで待機して支持者を広めたり地方を押さえる役目を担った。一方のジェームズ2世もカトリック政策を撤回、オランダ軍の遠征を発表してオランダへの警戒と国土防衛を呼びかけたが、周囲はオランダ軍遠征で動揺が広がっていた<ref>『イギリス革命史(下)』P41 - P56。</ref>。
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=== イングランド上陸 ===
[[画像:Prince of Orange engraving by William Miller after Turner R739.jpg|thumb|right|250px|イングランドへ向かうオラニエ公]]
[[10月30日|30日]]にウィレム3世はオランダにメアリーを残しオランダ軍2万を率いて出港したが、嵐のため翌[[10月31日|31日]]に一旦引き返した。[[11月11日]]に再度出港、[[11月15日]](イングランドが使用している[[旧暦]]では[[11(11月5日]])にイングランド西部の[[デヴォン]]海岸に上陸、[[11月17日|17日]]([[11(11月7日]])に宣言文を配布して国民に広く主張を訴えた。これらの事実を知ったジェームズ2世は議会に譲歩を示したが、既に手遅れだった。
 
この頃、イングランド軍内部ではジェームズ2世に任命されたカトリックの士官に対する不服従が広がり、彼らはオランダ軍と戦おうとはしなかった。[[11月23日|23日]]([[11(11月13日|13日]])にジェームズ2世の命令を受けたイングランド軍が[[ソールズベリー]]にやって来たが、指揮官のコーンベリー子爵[[エドワード・ハイド (第3代クラレンドン伯爵)|エドワード・ハイド]](メアリーの母方の従弟、後の第3代[[クラレンドン伯爵]])が翌日の[[11月24日|24日]]([[11(11月14日|14日]])にオランダ軍に寝返った。これを受けてジェームズ2世は[[11月27日|27日]]([[11(11月17日|17日]])に自ら[[ロンドン]]から出陣して庶子のベリック公[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ジェームズ・フィッツジェームズ]]を[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]に派遣した。しかし、軍議で方針がまとまらず[[12月3日]]([[11(11月23日]])にロンドンに引き上げると、ジェームズ2世が創設した常備軍の司令官[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]が脱走、戦わずしてオランダ軍に投降した。
 
オランダ軍がロンドンに迫ると、[[12月4日|4日]]([[11(11月24日]])にジェームズ2世の次女でやはりプロテスタントとして育てられていた[[アン (イギリス女王)|アン]]の夫である[[デンマーク]]王子[[ジョージ (カンバーランド公)|ジョージ]]がオーモンド公[[ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]]と共に脱走、[[12月6日|6日]]([[11(11月26日]])にはアンがチャーチルの妻で女官[[サラ・ジェニングス]]やコンプトンの手引きでロンドンから姉の夫であるウィレム3世のもとに逃亡し、夕方にロンドンへ戻ったジェームズ2世は衝撃を受けて孤立していった。ポーツマスにいたベリックとイングランド艦隊も抗戦を諦め、オランダ軍は東進しながら支持者を集めていった<ref>『イギリス革命史(下)』P56 - P79。</ref>。
 
=== ジェームズ2世の亡命 ===
不利を悟ったジェームズ2世は、重臣のハリファックス侯[[ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯)|ジョージ・サヴィル]]とゴドルフィン男爵[[シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)|シドニー・ゴドルフィン]]・ノッティンガム伯[[ダニエル・フィンチ (第2代ノッティンガム伯)|ダニエル・フィンチ]]の3人をウィレム3世の元へ派遣、交渉による妥協を見出そうとした。一方で[[12月20日]]([[12(12月10日]])にまず王妃と王子をフランスに亡命させ、翌日の[[12月21日|21日]]([[12月11(11|11日]])に自らも亡命に走ったが、[[ケント (イングランド)|ケント]]で捕らえられた。王が何の抵抗もせず亡命に走って捕らえられたことは議会側には思いもかけない展開であったが、議会はメアリーの立場を重んじて王を処刑せずそのまま留め置いた(処刑すれば[[殉教者]]として同情が集まるという判断もあった)。
 
ジェームズ2世不在のロンドンは不穏な空気に包まれ、ジェームズ2世の義弟(メアリーとコーンベリーの叔父)に当たるロチェスター伯[[ローレンス・ハイド (初代ロチェスター伯爵)|ローレンス・ハイド]]がロンドンに貴族・聖職者を集めて暫定政権を発足、抵抗する拠点にはオランダ軍との交戦を禁じる通達を送り、ウィレム3世の宣言通りに自由な議会を開くことを約束、ウィレム3世の到着までに治安維持に務めた。ウィレム3世と交渉した3人は21日にロンドンへ戻り暫定政権に加わり、ハリファックスが議長となり引き続き事態の収拾に努め、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]まで進軍したウィレム3世との交渉を経てジェームズ2世の再度の亡命を認めた。
 
[[12月22日|22日]]([[12(12月12日|12日]])、ジェームズ2世の側近である近衛騎兵隊長のフェヴァシャム伯[[ルイス・ド・デュラス (第2代フェヴァシャム伯)|ルイス・ド・デュラス]]はジェームズ2世の命令を受けて軍隊を解散させたが、武装解除していなかったためかえって不穏な状態となり、暫定政権は兵に復員を呼びかけねばならなかった。一方、イングランド艦隊司令官のダートマス男爵[[ジョージ・レッグ (初代ダートマス男爵)|ジョージ・レッグ]]は[[12月24日|24日]]([[12(12月14日|14日]])に暫定政権の指示を受け取り交戦を停止、陸海軍は両方共オランダ軍への抵抗を止めた。
 
ジェームズ2世は[[12月26日|26日]]([[12(12月16日|16日]])にロンドンへ帰還、ウィレム3世とロンドンでの会見を提案したが、ウィレム3世とその支持者達はおろか暫定政権も中途半端な妥協は認めない姿勢を取り、ジェームズ2世の手紙をウィレム3世に渡したフェヴァシャムは一時ウィンザーで捕えられている。そして、ジェームズ2世は[[12月28日|28日]]([[12(12月18日|18日]])にウィレム3世の要請でロンドンを退去、5日後の1689年[[1月2日]]([[12月23日]])にフランスへ亡命、ウィレム3世は28日にジェームズ2世退去後のロンドンへ入った<ref>『イギリス史2』P255、『スイス・ベネルクス史』P264 - P265、『イギリス革命史(下)』P79 - P98。</ref>。
 
== 新国王の即位 ==