削除された内容 追加された内容
本文一部加筆。注釈と出典を分離。参考文献を列挙。
1行目:
{{Otheruses|古代の隼人}}
 
'''隼人'''(はやと)とは、[[古代]][[日本]]において、[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]・[[日向国|日向]](現在の[[鹿児島県]]・[[宮崎県]])に居住した人々。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「[[ハヤブサ]]のような人」の形容とも<ref>『Story 日本の歴史 古代・中世・近世史編』 {{Sfn|日本史教育研究会 [[山川出版社]] |2001年 ISBN 4-634-01640-0 |p.=62</ref>}}方位の象徴となる[[四神]]に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも<ref>{{Sfn|鐘江宏之『律令国家と万葉びと (全集 日本の歴史 3)』|2008|p=95頁</ref>}}(あくまで隼人は大和側の呼称)。風俗習慣を異にして、しばしば[[大和]]の政権に反抗した。やがて[[ヤマト王権]]の支配下に組み込まれ、[[律令制]]に基づく[[官職]]のひとつとなった。[[兵部省]]の[[被官]]、[[隼人司]]に属した。[[百官名]]のひとつとなり、[[東百官]]には、隼人助(はやとのすけ)がある。現在は、[[日本人]]男性の[[人名]]としても用いられる。
 
== 概要 ==
古く[[熊襲]](くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが<!-- 『日本の考古学 Ⅳ 古墳時代 (上)』 {{Sfn|近藤義郎 |藤沢長治編 河出書房 1966年 |小田|1973|p.163(=163|ps=(参考論文はこれより古いと見られる) --><ref>}}{{Refnest|group="注"|熊襲の後裔を隼人とする説もあるが、「クマ」も「ソ」も、隼人の阿多や大隅も九州南部の地名であり、大和政権に従わないいくつかの部族に対する名称と近年では解されている(系譜的というより独特の文化を継承した部族)。参考・<ref>武光誠 『古事記・日本書紀を知る事典』 東京堂出版 初版 1999年 ISBN 4-490-10526-6 ,p.223の脚注より</ref>。}}、「熊襲」という言葉は[[日本書紀]]の[[日本武尊]]物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は[[平安時代]]初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は[[仁徳天皇|仁徳]]紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている<!-- {{Sfn|門脇禎二 |浩一『古代史を解く『鍵(キーワード)』』 [[学生社]] |1995|p.=186より --><ref>}}{{Refnest|group="注"|『古事記』では、「[[曽婆訶理]](ソバカリ」、『日本書紀』では、「刺領巾(サシヒレ」の名で登場し、仁徳没後、一方の皇子に命じられ、自ら従えていた皇子(主君)を殺害するも、酒を飲まされ、寝返った皇子に殺害されてしまう。体制外の武力として隼人が利用された語りである。参考・<ref>笹山晴生 『古代国家と軍隊 皇軍と私兵の系譜』 [[中公新書]] 1975</ref>。}}。こうした近習の記事や[[雄略天皇]]が亡くなり墓の前で泣いたなどの記事は、私的な家来であり、帰化したのは[[7世紀]]末頃とされる<!-- ref>笹山1975(武光誠 『古事記・日本書紀を知る事典』 東京堂出版 1999p.=223にも同じ記述あり --)</ref>{{Sfn|中村|2001}}が、[[6世紀]]末や7世紀初め説もある<!-- 同『古代史を解く『鍵(キーワード)』』 {{Sfn|門脇|森|1995|p.=196 -->}}
 
服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは[[大隅国]]設置([[713年]])後にも反乱を起こしたが、[[720年]]([[養老]]4年)に勃発した[[隼人の反乱]]と呼ばれる大規模な反乱が[[征隼人将軍]][[大伴旅人]]によって征討([[721年]])された後には完全に服従した。延暦11年(793年)8月にはこれまで6年に1度の「隼人の調」を廃した(『[[類聚国史]]』隼人条)。これに伴って、一般の[[公地公民制|公民]]と同じ[[租庸調|調庸]]に置き換えられて隼人とそれ以外の百姓との間の負担の公平化を図ったと考えられる。続いて延暦18年([[800年]])には[[班田収授法]]が初めて実施された。元来、奥羽両国や薩摩・大隅などの「辺要国」における班田収授が遅れた理由は、班田収授には墾田の収公なども伴うために帰属した[[蝦夷]]・隼人を含めた辺要国の「百姓」の動揺を防ぐとともに彼らの墾田を保護した優遇策であった。従って、班田収授法の対象になるということは隼人にも一般の公民と同じ租庸調が課される条件が整えられたことになり、法的意味での「隼人の消滅(=公民化・百姓化)」の完成を意味したと考えられる{{Sfn|宮原|2014|pp=118-121|ps=(原論文発表、1986年)}}。
 
服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは[[大隅国]]設置([[713年]])後にも反乱を起こしたが、[[隼人の反乱]]と呼ばれる大規模な反乱が[[征隼人将軍]][[大伴旅人]]によって征討([[721年]])された後には完全に服従した。延暦11年(793年)8月にはこれまで6年に1度の「隼人の調」を廃した(『類聚国史』隼人条)。これに伴って、一般の公民と同じ調庸に置き換えられて隼人とそれ以外の百姓との間の負担の公平化を図ったと考えられる。続いて延暦18年([[800年]])には[[班田収授法]]が初めて実施された。元来、奥羽両国や薩摩・大隅などの「辺要国」における班田収授が遅れた理由は、班田収授には墾田の収公なども伴うために帰属した蝦夷・隼人を含めた辺要国の「百姓」の動揺を防ぐとともに彼らの墾田を保護した優遇策であった。従って、班田収授法の対象になるということは隼人にも一般の公民と同じ租庸調が課される条件が整えられたことになり、法的意味での「隼人の消滅(=公民化・百姓化)」の完成を意味したと考えられる<ref>宮原武夫「律令国家と辺要」『古代東国の調庸と農民』 岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-862-2 PP.118-121 (原論文発表、1986年)</ref>。8世紀初め、現在の鹿児島県一帯への移住民は総人口の7分の1に相当する9千人前後と推定され<ref>『Story 日本の歴史 古代・中世・近世史編』 {{Sfn|日本史教育研究会 山川出版社 |2001|p.=62</ref>}}、この推定に従うなら、(総人口6万3千人-9千人前後で)5万4千人前後が在地人=隼人と推定される(本州への移住民は含まず)<ref>{{Refnest|group="注"|小山修三(国立民族学博物館)が数理的に推計した結果では、古墳時代([[土師器]]時代)の列島人口は約540万人とされる。参考・日本の古代5『前方後円墳の世紀』 <ref>浩一編 [[中央公論社]] 1986年 ISBN 4-12-402538-6 ,p.131より</ref>。[[奈良時代]]に至っても総人口は600万に満たない([[近代以前の日本の人口統計]]も参照)事からも、隼人の人口は総人口の100分の1前後と想定される。</ref>}}
 
古くから[[畿内]]に移住させられ、宮中で守護に当たる<!-- {{Refnest|group="注"|[[日本書紀]]』に隼人が門番を務め、その時、遠吠えする風習(悪霊から門を守る為)があった事が記されている。 -->}}ほか、芸能、[[相撲]]、竹細工などを行うようになった<ref>{{Refnest|group="注"|『日本書紀』天武朝(7世紀末)の記述として、隼人が朝廷で相撲を取った記述があるが、大和の相撲と異質であったとは記されていない。天武天皇11年([[682年]])、大隅隼人と阿多隼人が相撲を取り、大隅隼人が勝った記述の他、持統天皇9年([[695年]])、飛鳥寺の西の木の下で、隼人が相撲を取り、民衆が観戦したとある。</ref><ref>}}{{Refnest|group="注"|様々な形で竹の文化を有していた為、『[[竹取物語]]』が南山城、つまり隼人の居住地で生まれた可能性も指摘されている。参考・<ref>森浩一企画 山中章 山田邦和共著 『日本の古代遺跡 28 京都Ⅱ』 [[保育社]] ),1992年 ISBN 4-586-80028-3 ,p.45より</ref>。また、[[コノハナサクヤヒメ]]のお産の際、へその緒を竹の刀で切るのも関連するものと見られる<!-- 『古代史を解く『鍵(キーワード)』』 ref>門脇、森,1995,p.187 --186</ref>。『延喜式』隼人司の記述では、竹笠の製作も担当していた。</ref>}}。特に[[山城国]]([[京都府]])南部に多く定住し<ref>{{Refnest|group="注"|[[正倉院]]には現在の[[京田辺市]]大住周辺住民の課税記録である『山城国隼人計帳』が保存され、大隅隼人が大部分を占め、一部阿多隼人が混在していた事が分かる。考古学的にも南九州との関連を示すものも多く、中世には「隼人荘」と呼ばれるなど、奈良盆地南部と共に近畿における隼人の二大居住地であり、武埴安彦の伝承に基本的に反映しているものとされる。参考・<ref>森浩一企画 山中章 山田邦和共著 『日本の古代遺跡 28 京都Ⅱ』 保育社 ),1992年 ISBN 4-586-80028-3 pp,p.43 - 44(p43~44(p.45に南山城を隼人の居住地とも記す)</ref>。}}、大隅隼人の住んだ現在の[[京田辺市]]には「大住」の地名が残る。[[律令制]]下においては、[[隼人司]]([[衛門府]]、後に[[兵部省]])が、これらを司った。
 
[[言語]]<ref>{{Refnest|group="注"|『[[続日本紀]]』[[養老]]6年([[721年]])4月16日条の記述として、「陸奥の蝦夷・薩摩の隼人らを征討した将軍(以下略)、通訳者に地位・功績に応じて勲位を授ける」とあり、通訳者を必要とした。</ref>}}・[[文化]]に関しては、他の地方と大きく異なっていたとされる<ref>『日本の考古学 Ⅳ 古墳時代 (上)』 [[近藤義郎]] [[藤沢長治]]編 [[河出書房]] 1966年 p.158({{Refnest|group="注"|風土が異なる事からとされる<ref>近藤&藤沢&小田 1973|p=158</ref>。地理的・風土的孤立から九州南部は、弥生文化の普及が遅れ、現在でも[[血液]]指数・[[指紋]]指数が特殊な数値を示し、身長が低いなどの人類学的特徴があり、これゆえにインドネシア系種族と見る説も出た<!-- ref>武光誠 『古事記・日本書紀を知る事典』 1999,p.223の脚注より --</ref>。『[[大宝律令]]』では、「[[異人]]」とも記している。</ref>}}。特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった<!-- {{Refnest|group="注"|『古事記』『日本書紀』に「代々朝廷で舞っていた」と記され、民俗だけでなく、中央政権にとって服従の示しとして認知されていた舞を、「有名であった」とする表現に問題はないと考えられる。 --><ref>}}{{Refnest|group="注"|『古事記』、『日本書紀』及び『[[続日本紀]]』に隼人舞は度々記述され、朝廷に[[租庸調|御調]]を貢進すると共に行われ、あるいは海外異国の客人の前でも舞われていたが、その後途絶えてしまい、具体的な芸態は不明であり、その実態については諸説にわかれている。現在、[[ネット]]上の動画でみられる地方芸能の「隼人舞」は復元と自称しているが実際は近代の創作である。</ref>}}。また[[平城宮]]跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている(『[[延喜式]]』に記述があり、合致している)。
 
[[肥前国]][[風土記]]によると、[[五島列島]]にも隼人に似た人々がいたという。また[[新唐書]]によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている<ref>{{Sfn|門脇禎二 |浩一『古代史を解く『鍵(キーワード)』』 [[学生社]] |1995年 ISBN 4-311-20194-X. |pp.183 - 184より。=183~184|ps=p.184に波邪の国は隼人と解し、邪古は「ヤク」であり、[[屋久島]]を指し、多尼は「タネ」であり、[[種子島]]であると述べている。</ref>}}
 
=== 各地の隼人 ===
;阿多隼人(薩摩隼人) 
: [[薩摩半島]]一帯に居住していた隼人族。[[薩摩国]]設置以前はこの一帯はアタ(阿多又は吾田と表記される)と呼ばれていた。『日本書紀』[[天武天皇]]11年([[682年]])の記事に記される。薩摩国設置後は、『[[続日本紀]]』[[和銅]]2年[[709年]]で'''薩摩隼人'''の呼称が用いられる。
;大隅隼人
: 後世、[[大隅郡]]([[大隅半島]]北部、特に「大隅郷(現在の[[志布志市]]から[[曽於市]][[大隅町]])」周辺か)と呼ばれる地域に居住した部族、主領域を[[肝属平野]]とする部族であるとする説<ref>{{Refnest|group="注"|『鹿屋市史 上巻(1967年版)』ではこの説が採用されている。</ref>}}もある。『[[日本書紀]]』天武天皇11年([[682年]])の記事ある。
;多褹(たね)隼人
: [[種子島]]と[[屋久島]]([[多禰島]])に居住した部族。大宝2年([[702年]])には多褹の隼人、征討軍を派遣して鎮圧する事態になった。
26 ⟶ 27行目:
: [[日向国]]に居住した部族。『続日本紀』和銅3年([[710年]])に部族の首長である'''曾君細麻呂'''が服属し外[[従五位]]下([[少納言]]や[[上国]]の[[守]]相当)に叙されたとの記事がある。ただし、これは、[[713年]][[大隅国]]が分離される前の記事である。『[[宇佐神宮]]史』[[養老]]3年([[719年]])の条には「大隅日向隼人襲来打傾日本國」の記事(「隼人の反乱」の前哨か)が見られる。
 
=== 隼人の考古学 ===
[[考古学]]的には、[[古墳時代]]の[[鹿児島県]]・[[宮崎県]]境周辺の九州南部に[[地下式横穴墓]]などの「地下式墓制」が分布することから、かつてはこれを隼人と関係づける説があった{{Sfn|近藤|藤沢|小田|1973|p=163|ps=(参考論文はこれより古いと見られる)}}{{Sfn|乙益|1970}}{{Sfn|上村俊雄|1984}}
 
それによると、隼人の墓制は3種類あるとして、薩摩半島南部の「[[立石土壙墓]]」を阿多隼人<!-- {{Sfn|門脇禎二 |浩一 『古代史を解く『鍵(キーワード)』』 学生社 |1995|pp.184 - 185 -->=184~185}}、薩摩半島北部の「[[板石積石棺墓]](地下式板石積石室墓)」を薩摩隼人、そして日向・大隅に分布する「[[地下式横穴墓]]」を日向・大隅隼人の墓制にそれぞれ対応させるというものであった<ref>{{Refnest|group="注"|[[地下式横穴墓]]」は日向・大隅・薩摩にまたがるが、「地下式板石積石室墓(現在では[[板石積石棺墓]])」はほとんど薩摩地方に限られている。この事から考古学者の[[小田富士雄]]は、前者が隼人に広く普及した墓制であり、後者は阿多隼人独特の墓制と推測した。参考・小田富士雄『日本の考古学 IV 古墳時代 (上)』 <ref>近藤義郎 &藤沢長治編 河出書房 1966年 &小田,1973,p.=163 </ref>。}}
 
しかしこれら九州南部の地下式墓制を隼人と関連付ける考え方は、1960~80年代にかけて隆盛したが、1990年代以降は文献と[[考古資料]]の安易な結びつけや、少なくとも[[飛鳥時代|飛鳥]]・[[奈良時代]]の「隼人」の概念を[[古墳時代]]中期~後期の地下式墓制にまで波及させる考え方について地元九州地方の研究者や学会から疑問や批判が強まり{{Sfn|下山|1995}}{{Sfn|宮崎考古学会|1998}}{{Sfn|永山|1998|pp=10&ndash;11}}、2000年代以降の考古学・文献史学からは有力な学説と見なされていない([[地下式横穴墓]]・[[板石積石棺墓]]・[[立石土壙墓]]の項も参照){{Sfn|原口|2008}}{{Sfn|橋本|2009}}{{Sfn|原口|2011}}{{Sfn|白石|2012|p=20}}。なお、隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半~8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない{{Sfn|橋本|藤井|2007|p=12}}。
また、南山城地域大住の[[男山]]丘陵から[[横穴墓]]が多く発見されていることについても、隼人と関連付ける説があった(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するとされた<!-- 同『古代史を解く『鍵』』 p.187 -->)。
 
また、南山城地域、[[京都府]][[京田辺市]]大住の[[男山]]丘陵から[[横穴墓]]が多く発見されていることについても、隼人と関連付ける説があった(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するとされた<!-- 同『古代史を解く『鍵』』 ){{Sfn|門脇|森|1995|p.=187 -->)}}が、考古学上、[[横穴墓]]と[[地下式横穴墓]]が別物であるうえ、隼人がいた九州南部には横穴墓がほとんど分布しないため、関連性に疑問がある{{Sfn|橋本|2012|p=142}}
しかしこれら九州南部の地下式墓制を隼人と関連付ける考え方は、1960~80年代にかけて隆盛したが{{Sfn|小田富士雄1966『日本の考古学 IV 古墳時代 (上)』 河出書房 p.163}}{{Sfn|乙益重隆1970「熊襲・隼人のクニ」『古代の日本3 九州』角川書店}}{{Sfn|上村俊雄1984『隼人の考古学』考古学ライブラリー30ニューサイエンス社}}、1990年代以降は文献と考古学資料の安易な結びつけや、少なくとも[[飛鳥時代|飛鳥]]・[[奈良時代]]の「隼人」の概念を[[古墳時代]]中期~後期の地下式墓制にまで波及させる考え方について地元九州地方の研究者や学会から疑問や批判が強まり{{Sfn|下山覚1995「考古学から見た隼人の生活-「隼人」問題と展望」『古代王権と交流8再開と南東の生活と文化』名著出版}}{{Sfn|永山修一1998「文献から見た『隼人』」『宮崎考古 第16号』p10~11}}{{Sfn|原口耕一郎2008「『記・紀』隼人関係記事の再検討(一)」『人間文化研究』Vol.09 名古屋市立大学}}、2000年代以降の考古学・文献史学からは有力な学説と見なされていない([[地下式横穴墓]]・[[板石積石棺墓]]・[[立石土壙墓]]の項も参照)。
 
=== 神話の中の隼人 ===
また、隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半~8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ないとされる{{Sfn|橋本達也・藤井大祐2007『古墳以外の墓制による古墳時代墓制の研究』鹿児島大学総合研究博物館、p12}}<ref>男山丘陵における[[横穴墓]]についても、考古学上、[[横穴墓]]と[[地下式横穴墓]]が別物であるうえ、隼人がいた九州南部には横穴墓が分布しないため、関連性に疑問がある。 </ref>。
[[日本神話]]では、[[海幸彦]]({{読み仮名|火照|ホデリ}}命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ([[海幸山幸]])、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという<ref>{{Refnest|group="注"|『古事記』に、ホデリの命が頭を下げ、「私はこれからのちは、あなた様の昼夜の守護人(もりびと)となってお仕えいたしましょう」と申し、それで今日に至るまでホデリの命の子孫たる隼人は、その海水に溺れた時の様々のしぐさを絶える事なく、演じて、宮廷にお仕え申しているのである、とある。参考・<ref>次田真幸 『古事記 (上) 全訳注』 [[講談社学術文庫]] 38冊2001年(2001(初版 1977年) ISBN 4-06-158207-0 p1977)p.205より。武田祏吉譯</ref>}}{{Refnest|group=" 『古事記』 [[角川書店]] 40版1969年(初版 1956年) p.69の脚注に"|「隼人が乱舞をして宮廷に仕える事の起源説明」とあり、隼人舞はその種族の独自の舞であるのを溺れる様の真似と説明した、と記す。</ref>。説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化は[[オーストロネシア語]]系文化であるとの説もある<ref>[[次真幸]] 『古事記 (上) 全訳注』 [[講談社学術文庫]] 38刷2001年(1969(初版 1977年) ISBN 4-06-158207-01956) p.192、[[コノハナサクヤヒメ]]伝説が[[バナナ型神話]]の類型とし、これが大和の『古事記』に導入された。参考・[[松村武雄]]『日本神話の研究』第二巻、[[大林太良]]『日本神話の起源』。</ref>。[[654年]](7世紀中頃)、日向に覩貨邏(通常は西域の[[トハラ人]]と解釈するが、現在のタイ・[[ドヴァーラヴァティ王国|ドヴァーラヴァティとの説有り]])の民が漂着した記述がある<ref>熊谷公男 日本の歴史03『大王から天皇へ』 [[講談社]] 2001年 ISBN 4-06-268903-0 p.28869脚注より</ref>}}
 
説話の類型([[大林太良]]ら)などから、隼人文化は[[オーストロネシア語]]系文化であるとの説もある{{Sfn|次田|2001|p.205|ps=初版1977}}{{Refnest|group="注"|[[コノハナサクヤヒメ]]伝説が[[バナナ型神話]]の類型とし、これが大和の『古事記』に導入された<ref> [[松村武雄]]『日本神話の研究』第二巻</ref><ref> [[大林太良]]『日本神話の起源』。</ref>}}。
=== 神話の中の隼人 ===
[[日本神話]]では、[[海幸彦]]({{読み仮名|火照|ホデリ}}命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ([[海幸山幸]])、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという<ref>『古事記』に、ホデリの命が頭を下げ、「私はこれからのちは、あなた様の昼夜の守護人(もりびと)となってお仕えいたしましょう」と申し、それで今日に至るまでホデリの命の子孫たる隼人は、その海水に溺れた時の様々のしぐさを絶える事なく、演じて、宮廷にお仕え申しているのである、とある。参考・次田真幸 『古事記 (上) 全訳注』 [[講談社学術文庫]] 38冊2001年(初版 1977年) ISBN 4-06-158207-0 p.205より。武田祏吉譯注 『古事記』 [[角川書店]] 40版1969年(初版 1956年) p.69の脚注に「隼人が乱舞をして宮廷に仕える事の起源説明」とあり、隼人舞はその種族の独自の舞であるのを溺れる様の真似と説明した、と記す。</ref>。説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化は[[オーストロネシア語]]系文化であるとの説もある<ref>[[次田真幸]] 『古事記 (上) 全訳注』 [[講談社学術文庫]] 38刷2001年(初版 1977年) ISBN 4-06-158207-0 p.192、[[コノハナサクヤヒメ]]伝説が[[バナナ型神話]]の類型とし、これが大和の『古事記』に導入された。参考・[[松村武雄]]『日本神話の研究』第二巻、[[大林太良]]『日本神話の起源』。</ref>。[[654年]](7世紀中頃)、日向に覩貨邏(通常は西域の[[トハラ人]]と解釈するが、現在のタイ・[[ドヴァーラヴァティ王国|ドヴァーラヴァティとの説有り]])の民が漂着した記述がある<ref>熊谷公男 日本の歴史03『大王から天皇へ』 [[講談社]] 2001年 ISBN 4-06-268903-0 p.288より</ref>。
 
[[654年]](7世紀中頃)、日向に覩貨邏(通常は西域の[[トハラ人]]と解釈するが、現在のタイ・[[ドヴァーラヴァティ王国|ドヴァーラヴァティとの説有り]])の民が漂着した記述がある{{Sfn|熊谷|2001|p=288}}。
=== 人骨から見た違い ===
 
松下孝幸の『南九州における古墳時代人骨の人類学的研究』(1990年)によると、南九州における男性人骨の形質は、内陸部と宮崎平野部では異なることが報告されている。内陸部の人々は縄文人・西北九州弥生人<ref>西北九州弥生人は、この地方の縄文人が弥生文化を取り入れた事でそのまま弥生人へと移行したと考えられている。参考・[[上田正昭]]他 「エコール・ド・ロイヤル 古代日本を考える 『日本古代史の謎再考』」 学生社 1983年 p.52より。つまり、内陸隼人は縄文系弥生人に近いと見られる<!-- 森浩一も『古代史を解く『鍵』』(pp.190 - 191)で当論文から内陸隼人を縄文系に近く、沿岸隼人を渡来系ではと解している。 -->。また、『肥前国風土記』で五島列島に隼人に似た人々がいたとする記述も、内陸隼人と同様に骨格上から西北九州弥生人にルーツを求めるのであれば、一定の説明はつく。</ref>に類似し、一方、平野部の人々の中には、北部九州弥生人に類似するグループも存在するとしている。つまり、人骨形質の観点からも隼人には地域差があったと判断される。さらに種子島の弥生時代終末期の遺跡から出土する人骨は、九州島の人骨と比較して、小柄であり、[[頭蓋変形]]がほどこされていたと考えられている<!-- 発掘された日本列島 ’2008 朝日新聞社 -->。
=== 人骨から見た違い ===
松下孝幸の『南九州における古墳時代人骨の人類学的研究』(1990年)によると、南九州における男性人骨の形質は、内陸部と宮崎平野部では異なることが報告されている{{Sfn|松下|1990}}。内陸部の人々は縄文人・西北九州弥生人<ref>に類似し、一方、平野部の人々の中には、北部九州弥生人に類似するグループも存在するとしている{{Refnest|group="注"|西北九州弥生人は、この地方の縄文人が弥生文化を取り入れた事でそのまま弥生人へと移行したと考えられている。参考・<ref> [[上田正昭]]他 「エコール・ド・ロイヤル 古代日本を考える 『日本古代史の謎再考』」 学生社 1983年 p.52より</ref>。}}。つまり、内陸隼人は縄文系弥生人に近いと見られる<!-- {{Refnest|group="注"|森浩一も『古代史を解く『鍵』』(pp.190 - 191)で当論文から内陸隼人を縄文系に近く、沿岸隼人を渡来系ではと解している。 -->。また、『肥前国風土記』で五島列島に隼人に似た人々がいたとする記述も、内陸隼人と同様に骨格上から西北九州弥生人にルーツを求めるのであれば、一定の説明はつく。</ref>に類似し、一方、平野部の人々の中には、北部九州弥生人に類似するグループも存在するとしている。つまり}}、人骨形質の観点からも隼人には地域差があったと判断される。さらに種子島の弥生時代終末期の遺跡から出土する人骨は、九州島の人骨と比較して、小柄であり、[[頭蓋変形]]がほどこされていたと考えられている<!-- 発掘された日本列島 ’2008 朝日新聞社 -->{{Sfn|文化庁|2008}}
 
ただし、これら人骨形質からの隼人像の復元については、弥生・古墳時代の[[考古資料]]を直接、隼人と結び付けて論じられていた時期(60年代~90年代)の学説に基づき、弥生・古墳時代人骨を基に分析されており{{Sfn|松下|1990}}、この時代考古資料により隼人像の復元はできない断じられた{{Sfn|橋本|2009}}{{Sfn|橋本|2012|p=139-146}}{{Sfn|白石|2012|p=20}}2000年代以降の研究解釈においては、その妥当性に注意が必要である。
 
== 隼人系呪術と関連氏族 ==
『[[延喜式]]』巻28(隼人司)には、元日・即位・蕃客入朝などの大儀には、「大衣2人、番上隼人20人、今来隼人20人、白丁隼人132人が参加した」と記されており、遠従の駕行には、「大衣2人、番上隼人4人、今来隼人10人が供奉した」とあり、隼人の呪力が大和政権の支配者層に信じられ、利用されていたと見られている<ref>{{Sfn|加藤謙吉 『大和政権と古代氏族』 [[吉川弘文館]] |1991年 ISBN 4-642-02253-8 |p.=98</ref>}}。井上辰雄らは、狗吠(犬の鳴き真似)行為や身につけている緋帛の肩巾(ひれ)や横刀が、悪霊を鎮める呪声であり、呪具であった事を明らかにしている<ref>{{Sfn|加藤謙吉 『大和政権と古代氏族』 |1991|p.=98</ref>}}
 
山川門など境界祭祀を司るとみられる境部(境合部)氏の系統は7氏あるが、この内、[[大和国]][[宇智郡]](現[[五條市]]原町おおすみ)境合部は、隼人系と見られ、これを含め、2氏が隼人系とされる<ref>{{Sfn|加藤謙吉 『大和政権と古代氏族』 |1991|p.=97</ref>}}。また、『延喜式』巻28大儀の条に「隼人の服装」についての記述があるが、『[[日本霊異記]]』(上巻一)に、小子部氏が雄略天皇の勅命により[[雷]]を捕えようとした時の姿、「[[緋]](あけ)の蘰(かずら)を額(ぬか)に著け、赤き幡鉾(はたほこ)をあげ」と酷似し、この事から井上辰雄は、隼人は[[雷神]]の鎮魂と言う職掌を介して小子部連と結びついていたのではないかと推測している<ref>{{Sfn|加藤謙吉 『大和政権と古代氏族』 |1991|p.=99</ref>}}
 
谷畑美帆・宮代栄一の『古墳時代の埋葬行為に関する一考察 -[[宮崎県]][[えびの市]]島内地下式横穴墓群を中心に-』(2005年)によると、島内地下式横穴墓群から出土した計209体の人骨の多くは非常に良好な保存状態にあり、宮崎県立西都原考古博物館に保管されている93体について、赤色顔料の塗布の有無と部位に関する観察が行なわれた{{Sfn|谷畑|宮代|2005}}。結果、顔料が塗られていた127体の内、顔面のみの塗布が最も多く(38例)、次いで頭部・上半身・下半身のいずれにも顔料を塗布したもの(23例)、それに次ぐのは、頭部と上半身に塗布したもの(11体)となり、顔面塗布が重視された事がわかった。どの段階で塗られたかは諸説あるが、これらの説を紹介した上で、当論文は結論として、第32号墓出土の1号人骨については、白骨化が進みながらも頭髪が残存している段階で塗られたと判断している(再塗とも考えられるが)。他人骨については、直接骨に塗ったとは考えがたいとも示している{{Refnest|group="注"|先述のように、地下式横穴墓出土遺物などの古墳時代資料を用いた隼人研究は今日支持されていないことにも留意すべきである。}}
 
== 隼人と関連が指摘される文化 ==
* [[群馬県]][[高崎市]]長瀞西古墳(5世紀前半)出土の[[鉄鏃]]の中に、南九州と近畿を中心に出土するタイプのものである「二段逆刺鉄鏃」{{Sfn|茂山|1979|p=3-20}}が見られており(1995年時点で群馬県でも2例が確認されている)、かつては隼人と関連する鏃ではないかとも考えられている<ref>『の指摘があった{{Sfn|群馬県古墳時代研究会資料集 第1集 群馬県内古墳出土の武器・武具』 |1995| pp.=27 - 28</ref>}}
* [[蛇行剣]]<ref>『文化庁編 発掘された日本列島 ’97 新発見考古学速報』 朝日新聞社</ref>。「[[地下式横穴墓]]」や「[[板石積石棺墓]](地下式板石積石室墓)」から蛇行剣の出土が比較的多いことに由来する。ただし前述のように、隼人と地下式墓制を関連付けて論じられない現在、どの程度有効性のある学説か疑問がある。
* 日向駒 - 『日本書紀』に[[推古天皇]]が「駒ならば日向の駒」と歌を詠んだ記事が見られるが、当時の日向は大隅・薩摩を含んだ地域であり、森浩一は「隼人の馬」を指すものではないかと指摘している<ref>{{Sfn|門脇禎二 |浩一 『古代史を解く『鍵(キーワード)』』 学生社 |1995年 p.|pp=197</ref>}}。この時代の南九州はまだ征圧が確定的ではない為、内国の馬とは区別視されたものと見られる。また、『[[新撰姓氏録]]』には額田部の先祖伝承で、[[允恭天皇]]の治世、薩摩と戦をしている時、額に「田」という字のつむじのある馬を手に入れ、天皇に献上したので、額田という名を与えられたとの記述があり、隼人の馬である事から、南方に繋がるものとの推定もある<ref> 同『古代史を解く『鍵』』 {{Sfn|門脇|森|1995|pp.=197 - 198 </ref>}}。これらの記事からも、隼人の馬が文化的にも内国とは別の扱いを受けていた事がわかる(現在でも、地理的・風土的特色から[[御崎馬]]が存在している)。この時代の日向馬が大和に送られたことは遺骸からも判明しており、[[大阪府]][[四條畷市]]の蔀屋北遺跡からは全身骨格(体高125センチ、5世紀頃)が出土しており、御崎馬の類と見られている<ref>『開館10周年記念特別展示 今来才伎 古墳・飛鳥の渡来人』 {{Sfn|大阪府立近つ飛鳥博物館 |2004|p.=26</ref>}}。ただし、この馬の全身骨格については、歯の形状が[[木曽馬]]に近かったことも指摘されている{{Sfn|森本|2012|p=110}}
 
== 民族系統 ==
59 ⟶ 64行目:
<!--* [[言語年代学]]によると、日本語の祖語と満州語が分かれた時期は約9千年前で<ref>上田正昭他『日本古代史の謎再考』 p.37</ref>、さらに日本語と朝鮮語が分離した時期は1980年代時点で6720年以上も前という推定値が出されており<ref>上田正昭他 『日本古代史の謎再考』 学生社 1983年 p.37に詳細な説明あり。</ref>、古代日本語の中で、隼人語(少なくとも大和側には通訳を必要とした)が形成されたのは、約5千年の間の中と捉えられる。(日本語と「隼人語」が同系統である確証はないのでコメントアウトとしておく。)-->
*『[[古事記]]』には、[[鵜飼]]は隼人の文化であるという記述がある。鵜飼は「[[照葉樹林文化]]」を特徴づける要素である。したがって「照葉樹林文化」をもった集団が隼人に多分に含まれていたことが示唆される。
*隼人はニュージーランド在住の歴史学者である[[角林文雄]]氏によれば、[[オーストロネシア人|オーストロネシア系]]民族であるとする見解<ref>角林文雄(1998)「隼人 : オーストロネシア系の古代日本部族」京都産業大学日本文化研究所紀要</ref>が古くから存在する{{Sfn|角林|1998|p=15-31}}
*隼人とは、文化的・人種的に独立した固有の民族集団ではなく、7世紀末~8世紀当時の[[律令制|律令政府]]が、律令体制導入の過程で大陸から取り入れた[[華夷思想]]に基づいて、古墳時代後期以来、地域的独自性が強く、[[班田制]]などの導入が未施行である薩摩・大隅地域の人々を、律令体制外の辺境民([[中華思想|化外の民]])として「設定」し、[[朝貢]]させる形をとらせた、政治的に創出された「疑似民族集団」と捉える意見もある{{Sfn|石上|1987}}{{Sfn|原口|2008}}{{Sfn|原口|2011}}{{Sfn|永山|2009}}。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|last=松村|first=武雄|authorlink=松村武雄|title=日本神話の研究 第2巻|publisher=[[培風館]]|year=1955|date=1955-01|ISBN=9784563066024|ref=harv}}
* 『隼人の古代史』([[中村明蔵]]著、平凡社新書、ISBN 978-4582851199)
* {{Cite book|和書|last=大林|first=太良|authorlink=大林太良|title=日本神話の起源|publisher=[[角川書店]]|year=1961|date=1961|NCID=BN03329074|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=鹿屋市史・上巻|publisher=[[鹿屋市]]|year=1967|date=1967-12|ISBN=4061582070|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=武田|first=祏吉|title=古事記 40版|publisher=[[角川書店]]|year=1969|date=1969|pages=69|ISBN=9784044001018 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=乙益|first=重隆|title=古代の日本3 九州|chapter=熊襲・隼人のクニ|publisher=[[角川書店]]|year=1970|date=1970-02|NCID=BN01878570|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=近藤|first=義郎|last2=藤沢|first2=長治 編|last3=小田|first3=富士雄|authorlink=近藤義郎|authorlink3=小田富士雄|title=日本の考古学 Ⅳ 古墳時代 (上)|publisher=[[河出書房]]|year=1973|date=1973|page=163|ISBN=4309716040|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|last=笹山|first=晴生|title=古代国家と軍隊 皇軍と私兵の系譜|date=1975-07|year=1975|publisher=[[中公新書]]|ISBN=4121004027}}
* {{Cite book|和書|last=次田|first=真幸|title=古事記 (上) 全訳注|publisher=[[講談社]]|year=1977|date=1977-12|pages=192|ISBN=4061582070|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|last=茂山|first=護|publisher=[[宮崎県総合博物館]]|chapter=〈研究ノート〉二段逆刺を有する鉄鏃について-地下式横穴出土鉄鏃集成覚書(1)-|journal=宮崎県総合博物館 研究紀要|issue=5|year=1979|date=1979|issn=02879425|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=上田|first=正昭|authorlink=上田正昭|title=日本古代史の謎再考(エコール・ド・ロイヤル 古代日本を考える)|publisher=[[学生社]]|year=1983|ISBN=4311410018|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=上村|first=俊雄|title=隼人の考古学(考古学ライブラリー30)|publisher=ニューサイエンス社([[北隆館]])|year=1984|date=1984-12|NCID=BN03969418|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=森|first=浩一 編|title=前方後円墳の世紀(日本の古代5)|publisher=[[中央公論社]]|year=1986|date=1986-08|pages=131|ISBN=4124025386|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|last=石上|first=英一|authorlink=石上英一|chapter=古代東アジア地域と日本|title=日本の社会史第1巻(列島内外の交通と国家)|date=1987|year=1987|publisher=[[岩波書店]]|ISBN= 4000040219}}
* {{Cite book|和書|last=松下|first=孝幸|title=南九州における古墳時代人骨の人類学的研究|year=1990|date=1990-03|url=http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/29416/1/ishi_i1044ronbun.pdf|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=加藤|first=謙吉|title=大和政権と古代氏族|publisher= [[吉川弘文館]] |year=1991|ISBN=4642022538|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=山中|first=章|last2=山田|first2=邦和|last3=奥村|first3=清一郎|author=森浩一(企画)|title=日本の古代遺跡 28 京都Ⅱ|publisher=[[保育社]]|year=1992|date=1992-10|page=45|ISBN=4586800283|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=群馬県古墳時代研究会|title=群馬県内古墳出土の武器・武具(群馬県古墳時代研究会資料集,第1集)|publisher=群馬県古墳時代研究会|year=1995|pages=27-28|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=門脇|first=禎二|last2=森|first2=浩一|authorlink2=森浩一|title=古代史を解く『鍵(キーワード)』|publisher=[[学生社]]|year=1995|date=1995-09|page=186|ISBN=431120194X|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=下山|first=覚|title=古代王権と交流8 西海と南東の生活と文化|chapter=考古学から見た隼人の生活-「隼人」問題と展望|publisher=名著出版|year=1995|date=1995-10|isbn=978-4626015167|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|last=角林|first=文雄|authorlink=角林文雄|title=隼人 : オーストロネシア系の古代日本部族|publisher=[[京都産業大学]]|journal=京都産業大学日本文化研究所紀要|issue=3|year=1998|date=1998-03| ISSN=13417207|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|editor=宮崎考古学会|publisher=宮崎考古学会|journal=宮崎考古|issue=16|year=1998|date=1998|ncid=AN00156823|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|last=中野|first=和浩|title=地下式横穴墓の群構造|year=1998|date=1998|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|last=永山|first=修一|title=文献から見た『隼人』|year=1998|date=1998|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|last=武光|first=誠|title=古事記・日本書紀を知る事典|date=1999-09|year=1999|page=223|publisher=[[東京堂出版]]|ISBN=4490105266}}
* {{Cite book|和書|last=熊谷|first=公男|title=日本の歴史03-大王から天皇へ-|publisher=[[講談社]]|year= 2001|ISBN=4062689030|p=288|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|author=日本史教育研究会|title=Story 日本の歴史 古代・中世・近世史編|date=2001-08|year=2001|page=62|publisher=[[山川出版社]]|ISBN=4634016400}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|last=中村|first=明蔵|authorlink=中村明蔵|title=隼人の古代史|date=2001-12|year=2001|publisher=[[平凡社]]|ISBN=9784582851199}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|author=[[大阪府立近つ飛鳥博物館]]|title=開館10周年記念特別展示・大阪府立近つ飛鳥博物館図録36-今来才伎 古墳・飛鳥の渡来人-
|date=2004-10|year=2004|publisher=大阪府立近つ飛鳥博物館|page=26|ncid=BA69370022}}
* {{Cite book|和書|last=谷畑|first=美帆|last2=宮代|first2=栄一|year=2005|date=2005-05|chapter古墳時代の埋葬行為に関する一考察 -宮崎県島内地下式横穴墓群を中心に-|url= http://archaeology.jp/convention/sokai2005kokushikan.html
|title=日本考古学協会総会第71回総会-研究発表要旨-|publisher=日本考古学協会|NCID= BA31803455|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=橋本|first=達也|last2=藤井|first2=大祐|title=古墳以外の墓制による古墳時代墓制の研究|publisher=[[鹿児島大学総合研究博物館]]|year=2007|date=2007-03|ncid=BA81981477|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|last=鐘江|first=宏之|title=律令国家と万葉びと(全集 日本の歴史 3)|date=2008-02|year=2008|page=95|publisher=[[小学館]]|ISBN=9784096221037}}
* {{Cite book|和書|author=[[文化庁]]|title=発掘された日本列島 ’2008|publisher=朝日新聞社|year=2008|date=2008|NCID=BN12888860|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|last=原口|first=耕一郎|title=『記・紀』隼人関係記事の再検討(一)|publisher=[[名古屋市立大学]]|journal=人間文化研究|volume=9|year=2008|date=2008-06|pages=204-188|issn=1348-0308|naid=110006979752|url=https://ncu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=213&item_no=1&page_id=13&block_id=17|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=橋本|first=達也|title=黎明館企画特別展「古代ロマン北南~三内丸山VS 上野原~」関連行事資料集|chapter=古墳研究と熊襲・隼人|url=http://www.museum.kagoshima-u.ac.jp/staff/hashimoto-hp/genko/kofun-kumasohayato2.pdf|publisher=[[鹿児島県歴史資料センター黎明館]]|year=2009|date=2009-09|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=永山|first=修一|title=隼人と古代日本(同成社古代史選書6)|publisher=[[同成社]]|year=2009|date=2009-10|ISBN=9784886214973|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|last=原口|first=耕一郎|title=『記・紀』隼人関係記事の再検討(二)|publisher=名古屋市立大学|journal=人間文化研究|volume=15|year=2011|date=2011-06|pages=204-232|issn=1348-0308|naid=110006979752|url=http://www.hum.nagoya-cu.ac.jp/journal/2011_15/232HARAGUCHI.PDF|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|author=[[大阪府立近つ飛鳥博物館]]|title=南九州とヤマト王権-日向・大隅の古墳-(大阪府立飛鳥博物館平成24年度秋季特別展図録)
|date=2012-09|year=2012|publisher=大阪府立近つ飛鳥博物館|ncid=BB10393330}}
** {{Cite book|和書|ref=harv|authorlink=白石太一郎|last=白石|first=太一郎|chapter=古墳からみた南九州とヤマト王権|p=8-20|title=南九州とヤマト王権-日向・大隅の古墳-(大阪府立飛鳥博物館平成24年度秋季特別展図録)
|date=2012-10|year=2012|publisher=大阪府立近つ飛鳥博物館|ncid=BB10393330}}
** {{Cite book|和書|ref=harv|last=森本|first=徹|chapter=もっと知りたい 蔀屋北遺跡の馬の復元|p=110|title=南九州とヤマト王権-日向・大隅の古墳-(大阪府立飛鳥博物館平成24年度秋季特別展図録)
|date=2012-10|year=2012|publisher=大阪府立近つ飛鳥博物館|ncid=BB10393330}}
**{{Cite book|和書|ref=harv|last=橋本|first=達也|chapter=地下式横穴墓とは何か|title=南九州とヤマト王権-日向・大隅の古墳-(大阪府立飛鳥博物館平成24年度秋季特別展図録)|date=2012-09|year=2012|publisher=大阪府立近つ飛鳥博物館|ncid=BB10393330}}
* {{Cite book|和書|last=宮原|first=武夫|title=古代東国の調庸と農民|publisher=岩田書院|year=2014|date=2014-09|pages=118-121|ISBN=9784872948622|ref=harv}}
 
== 関連項目 ==
72 ⟶ 125行目:
{{columns-list|2|
* [[熊襲]]
* [[曽婆訶理]]
* [[近衛兵]]
* [[藤原広嗣の乱]]
85 ⟶ 139行目:
* [[二階堂進]]・[[山中貞則]] - [[昭和]]・[[平成]]の政治家。[[大隅半島]]出身・選出だが「薩摩隼人」と称された。
}}
 
 
{{日本の民族}}