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{{Otheruses|古代の隼人}}
'''隼人'''(はやと)とは、[[古代]][[日本]]において、[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]・[[日向国|日向]](現在の[[鹿児島県]]・[[宮崎県]])に居住した人々。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「[[ハヤブサ]]のような人」の形容とも
== 概要 ==
古く[[熊襲]](くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが
服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは[[大隅国]]設置([[713年]])後にも反乱を起こしたが、[[720年]]([[養老]]4年)に勃発した[[隼人の反乱]]と呼ばれる大規模な反乱が[[征隼人将軍]][[大伴旅人]]によって征討([[721年]])された後には完全に服従した。延暦11年(793年)8月にはこれまで6年に1度の「隼人の調」を廃した(『[[類聚国史]]』隼人条)。これに伴って、一般の[[公地公民制|公民]]と同じ[[租庸調|調庸]]に置き換えられて隼人とそれ以外の百姓との間の負担の公平化を図ったと考えられる。続いて延暦18年([[800年]])には[[班田収授法]]が初めて実施された。元来、奥羽両国や薩摩・大隅などの「辺要国」における班田収授が遅れた理由は、班田収授には墾田の収公なども伴うために帰属した[[蝦夷]]・隼人を含めた辺要国の「百姓」の動揺を防ぐとともに彼らの墾田を保護した優遇策であった。従って、班田収授法の対象になるということは隼人にも一般の公民と同じ租庸調が課される条件が整えられたことになり、法的意味での「隼人の消滅(=公民化・百姓化)」の完成を意味したと考えられる{{Sfn|宮原|2014|pp=118-121|ps=(原論文発表、1986年)}}。
古くから[[畿内]]に移住させられ、宮中で守護に当たる
[[言語]]
[[肥前国]][[風土記]]によると、[[五島列島]]にも隼人に似た人々がいたという。また[[新唐書]]によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている
;阿多隼人(薩摩隼人)
: [[薩摩半島]]一帯に居住していた隼人族。[[薩摩国]]設置以前はこの一帯はアタ(阿多又は吾田と表記される)と呼ばれていた。『日本書紀』[[天武天皇]]11年([[682年]])の記事に記される。薩摩国設置後は、『[[続日本紀]]』[[和銅]]2年[[709年]]で'''薩摩隼人'''の呼称が用いられる。
;大隅隼人
: 後世、[[大隅郡]]([[大隅半島]]北部、特に「大隅郷(現在の[[志布志市]]から[[曽於市]][[大隅町]])」周辺か)と呼ばれる地域に居住した部族、主領域を[[肝属平野]]とする部族であるとする説
;多褹(たね)隼人
: [[種子島]]と[[屋久島]]([[多禰島]])に居住した部族。大宝2年([[702年]])には多褹の隼人、征討軍を派遣して鎮圧する事態になった。
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: [[日向国]]に居住した部族。『続日本紀』和銅3年([[710年]])に部族の首長である'''曾君細麻呂'''が服属し外[[従五位]]下([[少納言]]や[[上国]]の[[守]]相当)に叙されたとの記事がある。ただし、これは、[[713年]][[大隅国]]が分離される前の記事である。『[[宇佐神宮]]史』[[養老]]3年([[719年]])の条には「大隅日向隼人襲来打傾日本國」の記事(「隼人の反乱」の前哨か)が見られる。
[[考古学]]的には、[[古墳時代]]の[[鹿児島県]]・[[宮崎県]]境周辺の九州南部に[[地下式横穴墓]]などの「地下式墓制」が分布することから、かつてはこれを隼人と関係づける説があった{{Sfn|近藤|藤沢|小田|1973|p=163|ps=(参考論文はこれより古いと見られる)}}{{Sfn|乙益|1970}}{{Sfn|上村俊雄|1984}}。
それによると、隼人の墓制は3種類あるとして、薩摩半島南部の「[[立石土壙墓]]」を阿多隼人
しかしこれら九州南部の地下式墓制を隼人と関連付ける考え方は、1960~80年代にかけて隆盛したが、1990年代以降は文献と[[考古資料]]の安易な結びつけや、少なくとも[[飛鳥時代|飛鳥]]・[[奈良時代]]の「隼人」の概念を[[古墳時代]]中期~後期の地下式墓制にまで波及させる考え方について地元九州地方の研究者や学会から疑問や批判が強まり{{Sfn|下山|1995}}{{Sfn|宮崎考古学会|1998}}{{Sfn|永山|1998|pp=10–11}}、2000年代以降の考古学・文献史学からは有力な学説と見なされていない([[地下式横穴墓]]・[[板石積石棺墓]]・[[立石土壙墓]]の項も参照){{Sfn|原口|2008}}{{Sfn|橋本|2009}}{{Sfn|原口|2011}}{{Sfn|白石|2012|p=20}}。なお、隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半~8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない{{Sfn|橋本|藤井|2007|p=12}}。
また、南山城地域大住の[[男山]]丘陵から[[横穴墓]]が多く発見されていることについても、隼人と関連付ける説があった(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するとされた<!-- 同『古代史を解く『鍵』』 p.187 -->)。▼
▲また、南山城地域、[[京都府]][[京田辺市]]大住の[[男山]]丘陵から[[横穴墓]]が多く発見されていることについても、隼人と関連付ける説があった(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するとされた
[[日本神話]]では、[[海幸彦]]({{読み仮名|火照|ホデリ}}命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ([[海幸山幸]])、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという
説話の類型([[大林太良]]ら)などから、隼人文化は[[オーストロネシア語]]系文化であるとの説もある{{Sfn|次田|2001|p.205|ps=初版1977}}{{Refnest|group="注"|[[コノハナサクヤヒメ]]伝説が[[バナナ型神話]]の類型とし、これが大和の『古事記』に導入された<ref> [[松村武雄]]『日本神話の研究』第二巻</ref><ref> [[大林太良]]『日本神話の起源』。</ref>}}。
▲=== 神話の中の隼人 ===
▲[[日本神話]]では、[[海幸彦]]({{読み仮名|火照|ホデリ}}命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ([[海幸山幸]])、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという<ref>『古事記』に、ホデリの命が頭を下げ、「私はこれからのちは、あなた様の昼夜の守護人(もりびと)となってお仕えいたしましょう」と申し、それで今日に至るまでホデリの命の子孫たる隼人は、その海水に溺れた時の様々のしぐさを絶える事なく、演じて、宮廷にお仕え申しているのである、とある。参考・次田真幸 『古事記 (上) 全訳注』 [[講談社学術文庫]] 38冊2001年(初版 1977年) ISBN 4-06-158207-0 p.205より。武田祏吉譯注 『古事記』 [[角川書店]] 40版1969年(初版 1956年) p.69の脚注に「隼人が乱舞をして宮廷に仕える事の起源説明」とあり、隼人舞はその種族の独自の舞であるのを溺れる様の真似と説明した、と記す。</ref>。説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化は[[オーストロネシア語]]系文化であるとの説もある<ref>[[次田真幸]] 『古事記 (上) 全訳注』 [[講談社学術文庫]] 38刷2001年(初版 1977年) ISBN 4-06-158207-0 p.192、[[コノハナサクヤヒメ]]伝説が[[バナナ型神話]]の類型とし、これが大和の『古事記』に導入された。参考・[[松村武雄]]『日本神話の研究』第二巻、[[大林太良]]『日本神話の起源』。</ref>。[[654年]](7世紀中頃)、日向に覩貨邏(通常は西域の[[トハラ人]]と解釈するが、現在のタイ・[[ドヴァーラヴァティ王国|ドヴァーラヴァティとの説有り]])の民が漂着した記述がある<ref>熊谷公男 日本の歴史03『大王から天皇へ』 [[講談社]] 2001年 ISBN 4-06-268903-0 p.288より</ref>。
[[654年]](7世紀中頃)、日向に覩貨邏(通常は西域の[[トハラ人]]と解釈するが、現在のタイ・[[ドヴァーラヴァティ王国|ドヴァーラヴァティとの説有り]])の民が漂着した記述がある{{Sfn|熊谷|2001|p=288}}。
=== 人骨から見た違い ===▼
松下孝幸の『南九州における古墳時代人骨の人類学的研究』(1990年)によると、南九州における男性人骨の形質は、内陸部と宮崎平野部では異なることが報告されている。内陸部の人々は縄文人・西北九州弥生人<ref>西北九州弥生人は、この地方の縄文人が弥生文化を取り入れた事でそのまま弥生人へと移行したと考えられている。参考・[[上田正昭]]他 「エコール・ド・ロイヤル 古代日本を考える 『日本古代史の謎再考』」 学生社 1983年 p.52より。つまり、内陸隼人は縄文系弥生人に近いと見られる<!-- 森浩一も『古代史を解く『鍵』』(pp.190 - 191)で当論文から内陸隼人を縄文系に近く、沿岸隼人を渡来系ではと解している。 -->。また、『肥前国風土記』で五島列島に隼人に似た人々がいたとする記述も、内陸隼人と同様に骨格上から西北九州弥生人にルーツを求めるのであれば、一定の説明はつく。</ref>に類似し、一方、平野部の人々の中には、北部九州弥生人に類似するグループも存在するとしている。つまり、人骨形質の観点からも隼人には地域差があったと判断される。さらに種子島の弥生時代終末期の遺跡から出土する人骨は、九州島の人骨と比較して、小柄であり、[[頭蓋変形]]がほどこされていたと考えられている<!-- 発掘された日本列島 ’2008 朝日新聞社 -->。▼
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ただし、これら人骨形質からの隼人像の復元については、弥生・古墳時代の[[考古資料]]を直接、隼人と結び付けて論じられていた時期(60年代~90年代)の学説に基づき、弥生・古墳時代人骨を基に分析されており{{Sfn|松下|1990}}、この時代考古資料により隼人像の復元はできない断じられた{{Sfn|橋本|2009}}{{Sfn|橋本|2012|p=139-146}}{{Sfn|白石|2012|p=20}}2000年代以降の研究解釈においては、その妥当性に注意が必要である。
== 隼人系呪術と関連氏族 ==
『[[延喜式]]』巻28(隼人司)には、元日・即位・蕃客入朝などの大儀には、「大衣2人、番上隼人20人、今来隼人20人、白丁隼人132人が参加した」と記されており、遠従の駕行には、「大衣2人、番上隼人4人、今来隼人10人が供奉した」とあり、隼人の呪力が大和政権の支配者層に信じられ、利用されていたと見られている
山川門など境界祭祀を司るとみられる境部(境合部)氏の系統は7氏あるが、この内、[[大和国]][[宇智郡]](現[[五條市]]原町おおすみ)境合部は、隼人系と見られ、これを含め、2氏が隼人系とされる
== 隼人と関連が指摘される文化 ==
* [[群馬県]][[高崎市]]長瀞西古墳(5世紀前半)出土の[[鉄鏃]]の中に、南九州と近畿を中心に出土するタイプ
* [[蛇行剣]]<ref>『文化庁編 発掘された日本列島 ’97 新発見考古学速報』 朝日新聞社</ref>。「[[地下式横穴墓]]」や「[[板石積石棺墓]](地下式板石積石室墓)」から蛇行剣の出土が比較的多いことに由来する。ただし前述のように、隼人と地下式墓制を関連付けて論じられない現在、どの程度有効性のある学説か疑問がある。
* 日向駒 - 『日本書紀』に[[推古天皇]]が「駒ならば日向の駒」と歌を詠んだ記事が見られるが、当時の日向は大隅・薩摩を含んだ地域であり、森浩一は「隼人の馬」を指すものではないかと指摘している
== 民族系統 ==
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<!--* [[言語年代学]]によると、日本語の祖語と満州語が分かれた時期は約9千年前で<ref>上田正昭他『日本古代史の謎再考』 p.37</ref>、さらに日本語と朝鮮語が分離した時期は1980年代時点で6720年以上も前という推定値が出されており<ref>上田正昭他 『日本古代史の謎再考』 学生社 1983年 p.37に詳細な説明あり。</ref>、古代日本語の中で、隼人語(少なくとも大和側には通訳を必要とした)が形成されたのは、約5千年の間の中と捉えられる。(日本語と「隼人語」が同系統である確証はないのでコメントアウトとしておく。)-->
*『[[古事記]]』には、[[鵜飼]]は隼人の文化であるという記述がある。鵜飼は「[[照葉樹林文化]]」を特徴づける要素である。したがって「照葉樹林文化」をもった集団が隼人に多分に含まれていたことが示唆される。
*隼人はニュージーランド在住の歴史学者である[[角林文雄]]氏によれば、[[オーストロネシア人|オーストロネシア系]]民族であるとする見解
*隼人とは、文化的・人種的に独立した固有の民族集団ではなく、7世紀末~8世紀当時の[[律令制|律令政府]]が、律令体制導入の過程で大陸から取り入れた[[華夷思想]]に基づいて、古墳時代後期以来、地域的独自性が強く、[[班田制]]などの導入が未施行である薩摩・大隅地域の人々を、律令体制外の辺境民([[中華思想|化外の民]])として「設定」し、[[朝貢]]させる形をとらせた、政治的に創出された「疑似民族集団」と捉える意見もある{{Sfn|石上|1987}}{{Sfn|原口|2008}}{{Sfn|原口|2011}}{{Sfn|永山|2009}}。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書|last=大林|first=太良|authorlink=大林太良|title=日本神話の起源|publisher=[[角川書店]]|year=1961|date=1961|NCID=BN03329074|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=鹿屋市史・上巻|publisher=[[鹿屋市]]|year=1967|date=1967-12|ISBN=4061582070|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=武田|first=祏吉|title=古事記 40版|publisher=[[角川書店]]|year=1969|date=1969|pages=69|ISBN=9784044001018 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=乙益|first=重隆|title=古代の日本3 九州|chapter=熊襲・隼人のクニ|publisher=[[角川書店]]|year=1970|date=1970-02|NCID=BN01878570|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=近藤|first=義郎|last2=藤沢|first2=長治 編|last3=小田|first3=富士雄|authorlink=近藤義郎|authorlink3=小田富士雄|title=日本の考古学 Ⅳ 古墳時代 (上)|publisher=[[河出書房]]|year=1973|date=1973|page=163|ISBN=4309716040|ref=harv}}
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* {{Cite book|和書|last=上田|first=正昭|authorlink=上田正昭|title=日本古代史の謎再考(エコール・ド・ロイヤル 古代日本を考える)|publisher=[[学生社]]|year=1983|ISBN=4311410018|ref=harv}}
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* {{Cite book|和書|last=下山|first=覚|title=古代王権と交流8 西海と南東の生活と文化|chapter=考古学から見た隼人の生活-「隼人」問題と展望|publisher=名著出版|year=1995|date=1995-10|isbn=978-4626015167|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|last=角林|first=文雄|authorlink=角林文雄|title=隼人 : オーストロネシア系の古代日本部族|publisher=[[京都産業大学]]|journal=京都産業大学日本文化研究所紀要|issue=3|year=1998|date=1998-03| ISSN=13417207|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|editor=宮崎考古学会|publisher=宮崎考古学会|journal=宮崎考古|issue=16|year=1998|date=1998|ncid=AN00156823|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|last=中野|first=和浩|title=地下式横穴墓の群構造|year=1998|date=1998|ref=harv}}
**{{Cite journal|和書|last=永山|first=修一|title=文献から見た『隼人』|year=1998|date=1998|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|last=武光|first=誠|title=古事記・日本書紀を知る事典|date=1999-09|year=1999|page=223|publisher=[[東京堂出版]]|ISBN=4490105266}}
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* {{Cite book|和書|ref=harv|last=鐘江|first=宏之|title=律令国家と万葉びと(全集 日本の歴史 3)|date=2008-02|year=2008|page=95|publisher=[[小学館]]|ISBN=9784096221037}}
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* {{Cite book|和書|last=橋本|first=達也|title=黎明館企画特別展「古代ロマン北南~三内丸山VS 上野原~」関連行事資料集|chapter=古墳研究と熊襲・隼人|url=http://www.museum.kagoshima-u.ac.jp/staff/hashimoto-hp/genko/kofun-kumasohayato2.pdf|publisher=[[鹿児島県歴史資料センター黎明館]]|year=2009|date=2009-09|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=永山|first=修一|title=隼人と古代日本(同成社古代史選書6)|publisher=[[同成社]]|year=2009|date=2009-10|ISBN=9784886214973|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|last=原口|first=耕一郎|title=『記・紀』隼人関係記事の再検討(二)|publisher=名古屋市立大学|journal=人間文化研究|volume=15|year=2011|date=2011-06|pages=204-232|issn=1348-0308|naid=110006979752|url=http://www.hum.nagoya-cu.ac.jp/journal/2011_15/232HARAGUCHI.PDF|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|author=[[大阪府立近つ飛鳥博物館]]|title=南九州とヤマト王権-日向・大隅の古墳-(大阪府立飛鳥博物館平成24年度秋季特別展図録)
|date=2012-09|year=2012|publisher=大阪府立近つ飛鳥博物館|ncid=BB10393330}}
** {{Cite book|和書|ref=harv|authorlink=白石太一郎|last=白石|first=太一郎|chapter=古墳からみた南九州とヤマト王権|p=8-20|title=南九州とヤマト王権-日向・大隅の古墳-(大阪府立飛鳥博物館平成24年度秋季特別展図録)
|date=2012-10|year=2012|publisher=大阪府立近つ飛鳥博物館|ncid=BB10393330}}
** {{Cite book|和書|ref=harv|last=森本|first=徹|chapter=もっと知りたい 蔀屋北遺跡の馬の復元|p=110|title=南九州とヤマト王権-日向・大隅の古墳-(大阪府立飛鳥博物館平成24年度秋季特別展図録)
|date=2012-10|year=2012|publisher=大阪府立近つ飛鳥博物館|ncid=BB10393330}}
**{{Cite book|和書|ref=harv|last=橋本|first=達也|chapter=地下式横穴墓とは何か|title=南九州とヤマト王権-日向・大隅の古墳-(大阪府立飛鳥博物館平成24年度秋季特別展図録)|date=2012-09|year=2012|publisher=大阪府立近つ飛鳥博物館|ncid=BB10393330}}
* {{Cite book|和書|last=宮原|first=武夫|title=古代東国の調庸と農民|publisher=岩田書院|year=2014|date=2014-09|pages=118-121|ISBN=9784872948622|ref=harv}}
== 関連項目 ==
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{{columns-list|2|
* [[熊襲]]
* [[曽婆訶理]]
* [[近衛兵]]
* [[藤原広嗣の乱]]
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* [[二階堂進]]・[[山中貞則]] - [[昭和]]・[[平成]]の政治家。[[大隅半島]]出身・選出だが「薩摩隼人」と称された。
}}
{{日本の民族}}
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