「林学」の版間の差分

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『ドイツ林学者伝』(片山茂樹/ 林業経済研究所, 1968年)によると、林学教育の始まりとして林業技術者教育の最初の方式は、いわば親方学校とも云うべきものであった。マイスタースクール、マイステルシューレであり、最初[[ドイツ]]で1763年に始まっている。当時の林学の大親方といわれる人は二人いて、有名な[[コッタ]]とハルティッヒであり、それぞれ親方学校を持っていた。親方即ちフォレストマイスターは各六人の学生(徒弟)を割り当てられていた。今日の学校はこの二校が次第に拡がっていったのであり、こうしてやがてドイツの林業技術者は[[ロシア]]の森林経営を委されたり、林学教育を頼まれたりするようにもなった。
この方式では、学生達は親方に近く起居し、かつ働いている。彼等は殆んど毎日親方に接触し、徒弟として仕え、多くの仕事をした。実際に山を視たり、討議を聴いたり、また経営案作成を手伝ったりすることによって、森林官の責任や役割や技術を学んだのである。マイスターは学生と親しくなることによって、その長所や、森林財産の管理経営者としての資質を判定することができた。
なおコッタとハルティッヒの親方学校創立は、それぞれ1785年と1789年であったが、前者が後にターラントの林学校に発展していったのである。このマイスター方式は当時としては一般的で、新しい職業になってきていた法律家や医師の教育についても同様であった。[[パリ大学]]のような学問の大センターでさえ、ずっと早くから採用されていたというほか、林業ではこの方式は20世紀までも一部に存続していたのである。林学教育の次のパターンは、ユニバーシテ(必ずしも完全な総合大学とは限らない)の中にあり、その緊密な一部としての林学校である。親方学校が政府系の林学校に属したように、実際家が教育し運営する林学校は、大学の林学校に道を明けることになってきた。『林学概論』([[島田錦蔵]]/著/ 経営評論社, 1952年)に[[オーストリア]]の林学校は1875年にマリアブルンからウイーンの農科大学に移管、[[イタリア]]の林学校は1910年にフローレンス大学に移されたとしている。スイスの林学教育は当初から[[チューリッヒ工科大学]]で1885年にスタートしている。
アメリカでは1898年に最初の林学校が[[コーネル大学]]に創設された。現在ここには林学科は無いが、当時の林学者の名をつけたホールを記念に保存している。1900年に林学の[[大学院]]が[[イエール大学]]の中に設けられた。米国林学会の『世界林学校名鑑』によると、当時収載された137校の中で、データ収集の時点で完全に大学から独立しているように見受けられたのが、6校のみである。もっとも、このリストには[[ソ連]]と[[中国]]本土は含まれず、東欧も不十分である。旧ソ連邦について云えば、1958年時点でも独立林学校と大学合併の林学校と両方持っていた。
世界の林学校の大部分が、今日総合大学の中に位置するということは、それだけ大きなメリットがあってのことであり、残っていた学校も次々と既存大学と合するようになった。ターラントの林学校はドレスデンの工科大学の一部であり、[[ハノーバー]]・[[ミュンヘン]]のそれはゲッティンゲン大学の一部に、ラインベックのそれは[[ハンブルク大学]]と一緒になった。[[フィリピン]]の林科大学はフィリピン総合大学の一部に、[[トルコ]]の林学部は[[イスタンブール大学]]の一部になっているし、他にも多数挙げることができる。しかし又一方、大学との結び付きを持たず、またそれを作ることが出来ないで潰れていくものも若干あった。独自の援助のある少なからぬ林学校では、大学と非公式の縁組をしているものもある。例えばラングーンの大学では、林学の先生は国の林務庁から来るが、専門の学位は大学から与えられる。国は教育を支えてくれるが、学生は林学コースの方でも大学プロパーのコースでも、どちらでも選べるのである。同様なパターンは[[パキスタン]]の林学校が、ペシャワル大学との協力で行なわれた。[[フランス]]の[[ナンシー]]の現[[フランス国立農村工学・河川・森林学校]]は、強力な援助は受けて来たのであるが、工・農学部とアカデミックに結び付き、1965年には合併したものである。[[スウェーデン]]・[[ストックホルム]]では、農学部、獣医学部と共に農科大学を形成した(1977年)ほか、[[スペイン]]・[[マドリード]]の林学校についても同様のことが見られる。