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Gereon K. (会話 | 投稿記録)
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佐野村では[[室町時代]]から[[熊野街道]]筋の[[小字|字]]市場村に定期市が立つようになった。一方、沿岸部には[[対馬国|対馬]]や[[五島列島]]方面まで漁に出るほどの大規模な船団が出現し、[[玉之浦納の反乱]]や[[文禄・慶長の役]]にも佐野村の漁民が登場する。[[江戸時代]]には[[豪農]]の中から廻船業を営む者が現れるようになり、なかでも[[食野家]](めしのけ)、[[唐金家]](からかねけ)は[[井原西鶴]]の「[[日本永代蔵]]」にも登場するほどで、当時の面影を残す「いろは四十八蔵」の一部が今も残る。また食野家が寄進した[[八角大梵鐘]]が三重県[[泰運寺]]に残されている。
 
漁業や廻船業が発展し「佐野浦」と呼ばれる港町として活況を呈した佐野村は、集落のおよそ3分の2が浦方で、その規模も[[岸和田藩]]浦奉行支配の9ヶ浦のなかで突出していた。また、岸和田藩は領内の民政に関して「七人[[庄屋]]」という制度を設けていたが、7人のうち2人を佐野村が占め、藤田家(西の庄屋)と吉田家(東の庄屋)が任ぜられていた。

食野・唐金らの活躍で巨万の富を得た佐野村は、和泉国では[[堺市|堺]]に次ぐ商業都市となり、人口も[[岸和田市|岸和田]][[城下町|城下]]6町や[[貝塚市|貝塚]][[寺内町|寺内]]5町を上回るようになった。なお、堺・岸和田・貝塚など計画的に形成された市街と異なり、佐野村の町場は自然発生的に形成され、迷路のような街路が古い家並みとともに現在もよく残っている。
 
[[第二次世界大戦]]期の[[1944年]](昭和19年)6月から敗戦までの間、[[佐野陸軍飛行場]]および[[明野陸軍飛行学校]]佐野分教所が設置されていた。[[滑走路]]は1,500m×60mのコンクリート舗装1本で、現在の末広公園や市民総合体育館付近が滑走路の西端にあたる。また、飛行場の設置に伴う[[灌漑]]施設の損失を補填するため、現在も当市最大の貯水量を誇る稲倉池および稲倉池用水パイプラインの築造工事が[[1942年]](昭和17年)12月から着工されたが、戦局の悪化と敗戦の影響で、竣工は[[1957年]](昭和32年)にずれ込んだ。