「東陽英朝」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[土岐持頼]]の子として[[美濃国]][[加茂郡]](現・[[岐阜県]])に生まれる。5歳の時に[[天竜寺]]の玉岫英種について出家し、後に師について[[南禅寺]]へ参禅するようになるが、30歳を過ぎてその元を離れ[[龍安寺]]初代住職の[[義天玄承]]に師事するようになった。長禄年間、川辺町下麻生の臨川寺を開く。義天玄承は東陽英朝が龍安寺に参じるようになって数年で没し、その後は[[雪江宗深]]を師とした。[[1478年]]([[文明 (日本)|文明]]10年)に[[印可]]を受けた後、雪江宗深が住持をしていた[[丹波国]]竜興寺の住持となる。[[1481年]](文明13年)に大徳寺の住持となるが、翌年竜興寺へ戻る。その後、[[尾張国]][[瑞泉寺 (犬山市)|瑞泉寺]]の住持となり、さらに妙心寺へ移って[[1489年]]([[長享]]3年)から3年間同寺の住職となる。妙心寺の住持となっていた延徳年間、岐阜県瑞浪市陶町の林昌寺を開いていた
 
妙心寺の住職を辞した後、[[1492年]]([[明応]]元年)に美濃国加茂郡の不二庵へ移り住む。後に不二庵は改築、改称されて[[大仙寺]]となった。その後岐阜定慧寺の開山となったほか、各務原[[少林寺 (各務原市)|少林寺]]の再興に携わった。1504年(永正元年)、少林寺にて[[遷化]]。塔所も同寺にある。[[1653年]]([[承応]]2年)、大道真源禅師と諡された。