「マンネルヘイム元帥の乗馬像」の版間の差分

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== 作成の経緯 ==
マンネルヘイムは1918の[[フィンランド内戦]]期にはすでにフィンランドの象徴であり、1930年代と[[第二次世界大戦]]中にはそのイメージがさらに強まった。乗馬像作成のための募金と計画は1937年に始まっており、彼が1951年に死去した後には[[ヘルシンキ大学]]の{{仮リンク|ヘルシンキ大学学生自治会|en|Student Union of the University of Helsinki|label=学生自治会}}が計画を再開させた<ref name="KB">{{cite web |url=http://www.kansallisbiografia.fi/english/?id=625 |title=Mannerheim, Gustaf (1867 - 1951) |last=Klinge |first=Matti |website=The National Biography of Finland |publisher=Suomalaisen Kirjallisuuden Seura |accessdate=11 November 2016}}</ref>。その後の募金では1952年内に737,503人から計7,800万[[フィンランド・マルッカ|マルッカ]]以上が集まった<ref>{{cite web |url=http://www.mannerheim.fi/13_erity/s_rpatsa.htm |title=Ratsastajapatsas |website=mannerheim.fi |publisher= |accessdate=11 November 2016 |language=フィンランド語}}</ref>。募金の多さは乗馬像の経費だけでなく、{{仮リンク|アスカイネン|en|Askainen}}にあるマンネルヘイムの出生地の{{仮リンク|ロウヒサーリ邸|fi|Louhisaaren kartano}}を購入できるほどであり、ロウヒサーリ邸は後に博物館になった<ref name="HAM" />。
 
銅像はコンペを経てアイモ・トゥキアイネンの設計が採用された。彼は写実的な乗馬像を作ったが、1960年に銅像が完成して航海公開されたときには美術界ではすでに時代遅れであると見られた。トゥキアイネンは自身の同時期の作品でもすでに[[写実主義]]から移行していた<ref name="HAM">{{cite web |url=https://www.hamhelsinki.fi/en/sculpture/marsalkka-mannerheimin-ratsastajapatsas-aimo-tukiainen/ |title=Marsalkka Mannerheim / Marchal Mannerheim |publisher=Helsinki Art Museum |accessdate=11 November 2016 }}</ref>。
 
銅像の馬の特徴、その歩様、そしてマンネルヘイムのどの馬がモデルになっているのかはしばしば議論された。マンネルヘイムはその一生に馬を数頭所有しており、トゥキアイネンは銅像を制作しているときにマンネルヘイムの最後の馬であるカテュ({{lang|fi|Käthy}})について調べたが、実際の銅像はカテュとは似ても似つかないものだった<ref name="HAM" />。