「24の前奏曲とフーガ」の版間の差分

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== 概要 ==
[[1950年]]7月にショスタコーヴィチは、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の没後200年を記念して、[[ライプツィヒ]]で開催された第1回国際バッハ・コンクールの審査員に選ばれ、ソ連代表団長として参加した。この記念祭にバッハの作品を多く聴いたことと、バッハ・コンクールに優勝したソ連の[[ピアニスト]]、[[タチアナ・ニコラーエワ]]の演奏に深く感銘を受けたことが、この作品を作曲するけとなった。
 
ショスタコーヴィチは早速、同年[[10月10日]]から作曲に着手し、次々に[[前奏曲]]と[[フーガ]]を作曲したが、当初は自身のピアノ演奏の技術を完成させるための多声的な[[練習曲]]として着想していた。しかし記念祭を通して受けた印象をもとに構想が次第に大きくなり、途中からバッハの『[[平均律クラヴィーア曲集]]』にならって、全ての調性を網羅する大規模な連作として作曲することに決定し、翌年の[[1951年]][[2月25日]]に全曲が完成した。後に差し替えられた第16番の前奏曲を除いて、番号通りの順番で作曲され、1曲完成するたびに、ニコラーエワがショスタコーヴィチのために弾いたという。初演は1951年[[4月5日]]にショスタコーヴィチ自身の演奏(抜粋)によって、全曲初演はニコラーエワによって[[1952年]][[12月23日]]と[[12月28日]]の2日間で行われた。
 
発表された当初、初演の直後に行なわれた同年[[5月16日]]の合評会では、党から「理想主義的傾向」や「[[形式主義 (音楽)|形式主義]]的傾向」にあたるとして厳しい批判を受けたが、[[マリヤ・ユーディナ]]、[[エミール・ギレリス]]、[[ゲンリフ・ネイガウス]]、ニコラーエワらのピアニストからは絶大な支持を受けた。彼らはこの曲集を積極的に演奏してその普及に貢献し、やがて[[ロシア]]のピアニストたちの重要なレパートリーとして定着した。ショスタコーヴィチも愛奏し、この曲集から抜粋を何度も録音している。
 
== 構成 ==
24組の前奏曲とフーガからなり、通して演奏すれば約3時間を要する。
 
* 第1番 [[ハ長調]]
* 第2番 [[イ短調]]
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* 第23番 [[ヘ長調]]
* 第24番 [[ニ短調]]
全体の曲調は穏やかで平明な雰囲気が支配的であるが、力強い部分や、深く物思いにふけるような部分も見られる。また、[[オラトリオ]]『[[森の歌]]』の主題が所々顔を出すが、これは[[ジダーノフ批判]]を受けた以降の中期作品の特徴でもある。
 
全体の曲調は穏やかで平明な雰囲気が支配的だが、力強い部分や、深く物思いにふけるような部分も見られる。また、[[オラトリオ]]『[[森の歌]]』の主題が所々顔を出すが、これは[[ジダーノフ批判]]を受けた以降の中期作品の特徴でもある。
 
== 関連作品 ==
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{{ショスタコーヴィチのピアノ曲}}
 
{{DEFAULTSORT:にしゆうしのせんそうきよくとふか}}
[[Category:ショスタコーヴィチのピアノ独奏曲]]
[[Category:前奏曲]]