「マリーア・テレーザ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ」の版間の差分

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[[ファイル:Maria Teresa di Borbone.jpg|thumb|ホーエンツォレルン侯爵夫人マリーア・テレーザ]]
'''マリーア・テレーザ・マッダレーナ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ'''('''Maria Teresa Maddalena di Borbone-Due Sicilie''', 1867年1月15日 [[チューリッヒ]] - 1909年3月1日 [[カンヌ]])は、イタ[[両シチリア王国]]旧王家[[ブルボン=シチリア家]]ので、ドイツのホーエンツォレルン侯[[ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン|ヴィルヘルム]]の最初の妻。
 
[[両シチリア王国]]最後の王[[フランチェスコ2世 (両シチリア王)|フランチェスコ2世]]の異母弟[[ルイジ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1838-1886)|トラーニ伯ルイジ]]と、バイエルン公[[マクシミリアン・ヨーゼフ・イン・バイエルン|マックス・ヨーゼフ]]の娘[[マティルデ・イン・バイエルン|マティルデ]]の間の一人娘として、両親の亡命先である[[スイス]]の[[チューリッヒ]]、エンゲ地区の邸宅「ヴェネツィア館(Venediggut)」で生まれた。マリーア・テレーザは家族からドイツ語の愛称「'''メーディ'''('''Mädi''')」で呼ばれた。母方の伯母は[[オーストリア皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世|フランツ・ヨーゼフ]]の皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]であり、マリーア・テレーザは皇帝夫妻の末娘で1歳年下の従妹である[[マリー・ヴァレリー・フォン・エスターライヒ|マリー・ヴァレリー]]大公女とは生涯を通じて親友だった。
 
1889年6月27日に[[ジグマリンゲン城]]において、[[ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン]]侯爵家の世継ぎ侯子[[ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン|ヴィルヘルム]]と結婚し、あいだに3人の子供をもうけた。この縁組により、ホーエンツォレルン侯家は[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]や[[ヴィッテルスバッハ家]]とも親族関係を築くことが出来た。1905年、夫がホーエンツォレルン侯爵家の家督を継ぐと、マリーア・テレーザもホーエンツォレルン侯爵夫人となった。
 
マリーア・テレーザは長年脊髄の病気に苦しみ、医者は全て匙を投げ、気候に配慮した手厚い看護も病気を快方には向かわせなかった。おそらく[[多発性硬化症]]だったと考えられている。彼女は夏は大抵[[バート・テルツ]]で過ごし、冬は[[カンヌ]]へ療養に出かけた。ジグマリンゲンにある侯爵家の居城は高い位置にあるため、彼女の体に良くないとされたのである。夫ヴィルヘルムは療養先にしばしば妻を見舞い、子供たちも休暇には常に母親の元で暮らした。
 
マリーア・テレーザは1909年に42歳で亡くなっ没した。夫ヴィルヘルムは1915年、バイエルン王女[[アーデルグンデ・フォン・バイエルン (1870-1958)|アーデルグンデ]]と再婚した。
 
== 子女 ==
 
{{DEFAULTSORT:まりあ てれさ ほるほね とうえ しちりえ}}
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