「水墨画」の版間の差分

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{{国際化|領域=日本|date=2016年8月26日 (金) 11:23 (UTC)}}
[[Image:Pine Trees.jpg|right|300px|thumb|松林図屏風 右隻 [[長谷川等伯]](東京国立博物館、[[国宝]])]]
[[File:Hasegawa Tohaku - Pine Trees (Shōrin-zu byōbu) - left hand screen.jpg|right|300px|thumb|松林図屏風 左隻]]
'''水墨画'''(すいぼくが)とは、「[[墨]]」一色で表現される[[絵画]]で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈かしで濃淡・明暗を表す。'''墨絵'''(すみえ)とも言う。
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[[日本]]には[[鎌倉時代]]に[[禅]]とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『[[達磨図]]』・『[[瓢鮎図]]』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「[[山水画]]」も書かれるようになった。
 
== 日本の水墨画 ==
[[Image:Hyônen zu by Josetsu.jpg|thumb|right|250px|如拙筆 瓢鮎図 京都・退蔵院蔵]]
[[File:Portrait of Kanzan-no text-.jpg|thumb|160px|right|可翁筆 寒山図 個人蔵]]
 
墨一色で表現した絵画は、日本では[[正倉院]]宝物の「墨画仏像」のような[[奈良時代]]の作例があり、古代から制作されていた。しかし、美術史で「水墨画」という場合には、単に墨一色で描かれた絵画ということではなく、墨色の濃淡、にじみ、かすれ、などを表現の要素とした中国風の描法によるものを指し、日本の作品については、おおむね鎌倉時代以降のものを指すのが通常である。着彩画であっても、水墨画風の描法になり、墨が主、色が従のものは「水墨画」に含むことが多い。
 
平安時代初期、密教の伝来とともに、仏像、仏具、曼荼羅等の複雑な形態を正しく伝承するために、墨一色で線描された「密教図像」が多数制作された。絵巻物の中にも『枕草紙絵巻』のように彩色を用いず、墨の線のみで描かれたものがある。しかし、これらのような肥痩や濃淡のない均質な墨線で描かれた作品は「白描」(はくびょう)ないし「白画」といい、「水墨画」の範疇には含めないのが普通である。
 
=== 初期水墨画 ===
中国における水墨画表現は[[唐]]時代末から、[[五代十国時代|五代]]~[[宋 (王朝)|宋]]時代初め(9世紀末~10世紀)にかけて発達した。中国の水墨画が写実表現の追求から自発的に始まったものであるのに対し、日本の水墨画は中国画の受容から始まったものである。日本における水墨画の受容と制作がいつ頃始まったかは必ずしも明確ではない。すでに12世紀末頃の詫磨派の仏画に水墨画風の筆法が見られるが、本格的な水墨画作品が現れるのは13世紀末頃で、中国での水墨画発祥からは4世紀近くを経ていた。13世紀末から14世紀頃までの日本の水墨画を美術史では「'''初期水墨画'''」と呼んでいる。水墨画がこの頃盛んになった要因としては、日本と中国の間で禅僧の往来が盛んになり、宋・[[元 (王朝)|元]]の新様式の絵画が日本にもたらされたことが挙げられる。13世紀になり、[[無学祖元]]、[[蘭渓道隆]]らの中国禅僧が相次いで来日した。彼らは絵画を含め宋・元の文物や文化を日本へもたらした。鎌倉にある[[円覚寺]]の仏日庵の所蔵品目録である「仏日庵公物目録」(ぶつにちあんくもつもくろく)は、元応2年(1320年)に作成された目録を貞治2年(1363年)頃に改訂したものであるが、これを見ると、当時の円覚寺には多数の中国画が所蔵されていたことが分かる。