「渥美清」の版間の差分

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そんな渥美であったが、脚本家・[[早坂暁]]とは20代に銭湯で知り合い、何度もプライベート旅行に行くなど終生の友であった。渥美は常に「ギョウさん(早坂暁の暁を音読みしたもの)、俺も連れてってちょうだいよ」と早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、特に早坂の故郷である[[愛媛県]][[北条市]](現・[[松山市]])及び、沖合いにある「[[北条鹿島]]」はお気に入りで何度も同行している。渥美の俳句「お遍路が一列に行く虹の中」は、早坂作のNHKドラマ「[[花へんろ]]」(早坂の自伝的ドラマ。渥美はナレーション担当で、[[遍路]]がモチーフになっており、舞台は前述の愛媛県北条市)および早坂への想いであると思われる。渥美の死後発見された晩年の手帳には「……旅行に行こう。家族とギョウさんにも声かけて一緒に行こう……」と綴ってあった。これらの内容からも、渥美にとって早坂がどれほど大切な存在であったかが窺われる。早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧し、渥美自身も何とか抜け出そうとの思いがあったが、結局「寅さん」の縛りから抜け出すことはできなかった。
 
昭和60年頃、渥美は俳人[[尾崎放哉]]を演じたいと早坂に相談し、早坂と渥美は取材旅行に訪れ、脚本の大筋も完成した。ところが寸前に地方局で[[尾崎放哉]]ドラマ化してしまっされたため、急遽[[種田山頭火]]に変更することになり、渥美と早坂は今度は[[種田山頭火]]の取材旅行に訪れ、脚本も完成した。ところがにもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに降板の申し出があった。降板の理由は体調不良やスケジュール不合などいわれるが、周囲からの「寅さん」のイメージ損失を嫌ったこととの軋轢かと思われる。ちなみに渥美降板により主役が[[フランキー堺]]となったこのドラマ「山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく」は、[[モンテカルロ国際テレビ祭]](脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。しかし、早坂は渥美に、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、上記「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。
 
上記著書の[[小林信彦]]は1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親友に近い関係であったが、次第に疎遠となっている。同書では、小林がその後親しくなっていく[[クレージーキャッツ]]の[[ハナ肇]]と渥美とは互いに敵愾心に近いライバル意識があったことにも触れ、クレージーのメンバーの社会常識を称える形で渥美とは性格的齟齬があったことを示唆している。なお、ハナからは後年、結果的に山田洋次作品のレギュラー主役の座を奪う形となった。