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'''都 裕次郎'''(みやこ ゆうじろう、[[1959年]][[2月25日]] - )は、[[滋賀県]][[大津市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])、元スコアラー、野球指導者。現在は[[中日ドラゴンズ]]の投手コーチを務めている。
 
== 経歴 ==
大津市真野で出生し、父が[[石原裕次郎]]のファンだった為、名前も「裕次郎」となった。大津市立真野小学校を経て大津市立堅田中学校時代に野球を始め、[[滋賀県立堅田高等学校]]から{{by|1976年}}の[[プロ時代は硬式野球ドラフト会議|ドラフト]]1位で[[中日ドラゴンズ]]入団。プロ入り当時は[[権藤博]]投手コ所属しエチに「もプロで続けられるフォームではない」と言われ活躍し。選手が甲子園大会へ個性を重んじ投球フォームに口を場はいことで知られた権藤が唯一、都く全国的対してフォーム矯正を施し無名の存在であった。
 
{{by|1976年}}の[[プロ野球ドラフト会議]]で[[中日ドラゴンズ]]から1位指名される。滋賀県内高校生として初のドラフト1位指名となり、中日に入団。プロ入り当時の投手コーチだった[[権藤博]]に「とてもプロで続けられるフォームではない」と言われた。選手の個性を重んじ投球フォームに口を出さないことで知られた権藤が唯一、都に対してはフォーム矯正を施した。
速球と[[スライダー (球種)|スライダー]]を武器に頭角を現し、3年目の{{by|1979年}}に一軍デビュー。5年目の{{by|1981年}}には[[先発ローテーション]]に定着し、翌{{by|1982年}}には[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に出場。同年は16勝5敗、勝率.762で[[最高勝率 (野球)|最高勝率]]を記録し、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。{{by|1984年}}にも開幕7連勝を含む13勝をマークしたが、{{by|1985年}}以降は腰痛や肩の怪我に苦しみ、5年間で2勝に終わった。{{by|1989年}}に現役引退。
 
速球と[[スライダー (球種)|スライダー]]を武器に頭角を現し、2年目の{{by|1978年}}には第15回[[ジュニアオールスターゲーム]]に出場し、3年目の{{by|1979年}}に一軍デビュー。5年目の{{by|1981年}}には[[先発ローテーション]]に定着し、翌{{by|1982年}}には[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に出場。同年は16勝5敗、勝率.762で[[最高勝率 (野球)|最高勝率]]を記録し、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。{{by|1984年}}にも開幕7連勝を含む13勝をマークしたが、{{by|1985年}}以降は腰痛や肩の怪我に苦しみ、5年間で2勝に終わった。{{by|1989年}}に現役引退。
引退後は球団に残り、[[打撃投手]]、[[スコアラー]]を経て、{{by|2003年}}には二軍投手コーチを務め、コーチ退任後は[[スカウト (勧誘)|スカウト]]を経て、{{by|2007年}}よりスコアラーを務める。チーム付のスコアラーであり、野球中継では都のコメントがリポートされることがある。{{by|2017年}}[[10月31日]]に、投手コーチへの就任が発表された。背番号は'''88'''<ref>[http://dragons.jp/news/2017/17103101.html 2018年度の監督、コーチングスタッフを発表] - 中日ドラゴンズ公式サイト</ref>。
 
引退後は球団に残り、[[打撃投手]]、[[スコアラー]]を経て、{{by|2003年}}には二軍投手コーチを務め、コーチ退任後は[[スカウト (勧誘)|スカウト]]を経て、{{by|2007年}}よりスコアラーを務める。チーム付のスコアラーであり、野球中継では都のコメントがリポートされることがある。その後チーフスコアラーを務め、{{by|2017年}}[[10月31日]]に、投手コーチへの就任が発表された。背番号は'''88'''<ref>[http://dragons.jp/news/2017/17103101.html 2018年度の監督、コーチングスタッフを発表] - 中日ドラゴンズ公式サイト</ref>。
 
珍プレーといえば同期の[[宇野勝]]のイメージが定着しているが、実は都自身も多く、ランナー無しの時に無人の二塁ベース上に[[牽制球]]を投げたり、[[カーブ (球種)|カーブ]]の握りのまま牽制球を投げた事がある。