「巨泉・前武ゲバゲバ90分!」の版間の差分

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毎回150本とも言われた多くのショートコントを繋いでいくという演出手法は、「大人は[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]の時間になるとトイレに行くが、子供は逆にコマーシャルの時にテレビの前に来る。なら本編はコマーシャルのような流れにすればいい」と言う考えによるものだった<ref name="yume3">{{Cite book |和書 |author=日本テレビ50年史編集室 |title=テレビ夢50年 番組編 3 (1971-1980) |publisher=日本テレビ放送網 |year=2004 |page=3}}</ref>。
 
予算をふんだんに掛け、制作時間をたっぷり取り、収録中に一度でもNGを出したネタは二度と収録しないといった、豪華贅沢な造りであった。放送作家陣が作り上げるネタの台本は、ディレクターの一人である[[齋藤太朗]]によれば「通常の番組の台本がB5版のところ、『ゲバゲバ』の台本はB4版で3センチぐらいの厚さだった」という<ref name="p187">{{Cite book |和書 |author=齋藤太朗 |title=ディレクターにズームイン!! |publisher=日本テレビ |year=2000 |page=187}}</ref>。当然ボツになったネタも膨大な量に上り、齋藤は「1回分のボツ原稿を積み上げると1メートルぐらいになった」と語っている<ref name="p187" />。
 
進行は台本に完全に忠実で[[アドリブ]]は一切許されず、一見雑談に見えるような所でも全て台本どおり展開されていた。前田武彦が一言二言アドリブを入れただけで「台本どおりにやれ」と怒鳴られた程であったという。ただし、[[藤村俊二]]は当時を振り返った際に、台本を譜面に例えた上で「僕らはそこで、いかにアドリブで演奏するか、という作業が面白かった」と語っており<ref>{{Cite book |和書 |author=齋藤太朗 |title=ディレクターにズームイン!! |pages=242 - 243}}</ref>、実際には出演者のアドリブによる演技も多々行われていた部分もあった。また、後に大橋巨泉は[[日経BP]]のインタビュー記事(2006年1月27日付)で「ゲバゲバでもアドリブを言っていいのは僕と前田(武彦)さんと欽ちゃん([[萩本欽一]])だけだったんです」と語っている<ref>{{Cite web | url = http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060127005218.shtml | title = NBonlineプレミアム 【大橋巨泉氏】金持ち、勝ち組、インテリはテレビなんか見なくなった | work = 日経ビジネスオンライン | publisher = [[日経BP]] | date = 2006-01-27 | accessdate = 2015-03-26 }}</ref>
 
基本的に1回の収録には丸二日間を費やしていたが、1日の収録では約100本のギャグを収録し、セットチェンジや照明の直し・リハーサルを含めると1本録るのに約7分かかる計算であったため、休憩を考慮に入れずNGが全く無かったとしても最低で11時間半はかかるという長丁場であった<ref name="p188">{{Cite book |和書 |author=齋藤太朗 |title=ディレクターにズームイン!! |page=188}}</ref>。プロデューサーの[[井原高忠]]はあまりの手間のかかりように「あんな番組はバカバカしくて俺達が若返らない限り誰もやろうとする奴はいないだろう」と後に述べている。ディレクターの齋藤も当時の井原の様子を「サブコン([[副調整室]])で[[グルコース|ブドウ糖]]を打ちながら、酸素ボンベを脇において、酸素を吸いながらやってた」「(スタッフへの指示のため)とにかくしゃべり続けてないといけないから、酸欠になっちゃうのだ」と回想しているところからも<ref name="p188" />、その過酷さがうかがえる
 
後に大橋巨泉は[[日経BP]]のインタビュー記事(2006年1月27日付)で「ゲバゲバでもアドリブを言っていいのは僕と前田(武彦)さんと欽ちゃん([[萩本欽一]])だけだったんです」と語っている<ref>{{Cite web | url = http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060127005218.shtml | title = NBonlineプレミアム 【大橋巨泉氏】金持ち、勝ち組、インテリはテレビなんか見なくなった | work = 日経ビジネスオンライン | publisher = [[日経BP]] | date = 2006-01-27 | accessdate = 2015-03-26 }}</ref>。
 
プロデューサーの[[井原高忠]]はあまりの手間のかかりように「あんな番組はバカバカしくて俺達が若返らない限り誰もやろうとする奴はいないだろう」と後に述べている。ディレクターの齋藤も当時の井原の様子を「サブコン([[副調整室]])で[[グルコース|ブドウ糖]]を打ちながら、酸素ボンベを脇において、酸素を吸いながらやってた」「(スタッフへの指示のため)とにかくしゃべり続けてないといけないから、酸欠になっちゃうのだ」と回想しているところからも<ref name="p188" />、その過酷さがうかがえる。
 
放送3回目となる1969年10月21日放送分では、生放送部分に[[新宿駅]]前で[[全日本学生自治会総連合|全学連]]が[[デモ行進]]する模様([[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)]])を挿入し、スタジオの巨泉・前武と[[小田急百貨店]]屋上からリポートする[[久保晴生]](当時日本テレビアナウンサー)との掛け合いも放送された。