「ナバラ州」の版間の差分

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12世紀末にはカスティーリャ王[[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]とアラゴン王[[アルフォンソ2世 (アラゴン王)|アルフォンソ2世]]が結託してナバラ王国に攻め込み、1200年にはビスケー湾岸のアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域を奪われた{{sfn|立石|2000|p=113}}。ナバラ王国は海岸部を失って内陸国となり{{Sfn|Collins|1990|pp=185}}、ピレネー山麓の小国へ地位を落とした{{sfn|立石|2000|p=113}}。1212年にカトリック諸国連合軍が[[ムワッヒド朝]]に挑んだ[[ナバス・デ・トロサの戦い]]では、[[サンチョ7世 (ナバラ王)|サンチョ7世]](不屈王)が率いる重装騎士団がカトリック勢力の勝利に貢献した{{sfn|バード|1995|pp=68-70}}{{sfn|コンラ|2000|pp=105-106}}。この戦いは[[レコンキスタ]](再征服運動)における転換点であり、[[ムワッヒド朝]]の衰退の決定的な要因となっている{{sfn|コンラ|2000|p=136}}。
 
1234年に死去したサンチョ7世には嗣子がおらず、シャンパーニュ家の[[テオバルド1世 (ナバラ王)|テオバルド1世]]が即位してフランス王朝が始まった{{sfn|バード|1995|pp=97-99}}{{Sfn|Collins|1990|p=232}}。国王は概してフランスに住み、実質的にはナバラ総督がナバラ王国を統治した{{sfn|バード|1995|pp=106-113}}。テオバルド1世はフランス貴族を要職に付け、ナバラ貴族の特権を侵害した{{sfn|立石|2000|p=113}}ため、歴代の総督はナバラ人に快く思われなかった。そのためフランスから召喚を受けた際には代表者を送ることを拒んだり、王権を主張する国王候補を[[コルテス]](身分制議会)が拒んだこともあった{{sfn|バード|1995|pp=106-113}}。ナバラ王国のフエロは女性の王位継承に寛容だったが、女子継承に否定的なフランスの伝統法はナバラ王国にも適用された{{sfn|バード|1995|pp=106-113}}。ナバラ地方のトゥデラにはレコンキスタ後も[[ムデハル]](再征服地域のイスラーム教徒)やユダヤ人が残り、トゥデラ出身の[[トゥデラのベンヤミン|ベンヤミン]]は初めて東方を旅行したヨーロッパ人として『オリエント旅行記』を書き残している{{sfn|立石|2000|p=113}}。
 
[[File:Palacio Real de Olite, Navarra, España, 2015-01-06, DD 07-09 HDR.JPG|thumb|right|現在のオリテ市街地と王宮(奥)]]
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1305年にはフランス王がナバラ王を兼ねたカペー朝が始まったが{{sfn|立石|2000|p=113}}、やはりフランス貴族が要職を独占したため、1328年にナバラのコルテス(身分制議会)は[[フアナ2世 (ナバラ女王)|フアナ2世]]をナバラ王に選出した{{sfn|立石|2000|p=113}}。フアナ2世の治世の1328年には、王国内でも生産的で開明的だったユダヤ人を迫害し、6,000人を死に追いやった{{sfn|バード|1995|pp=116-120}}。1348年から1349年には[[黒死病]]がナバラ王国にも蔓延し、人口の60%を失った{{sfn|バード|1995|pp=116-120}}。これらのことが重なり、14世紀半ば以降のナバラ王国は国力が弱体化し、独立の喪失に向かい始めた{{sfn|バード|1995|pp=116-120}}。フアナ2世を継いだ[[カルロス2世 (ナバラ王)|カルロス2世]]の治世にはカスティーリャ軍やフランス軍のナバラ王国への侵攻を受けた{{sfn|立石|2000|pp=139-140}}。1379年にはトゥデラ城やエステーリャ城を含む20の砦をカスティーリャ王国に占領され{{sfn|バード|1995|pp=116-120}}、カルロス2世はフランスにあるほぼすべての領地を喪失した{{sfn|立石|2000|pp=139-140}}。
 
1418年には[[カルロス3世 (ナバラ王)|カルロス3世]]が[[オリテ]]に{{仮リンク|オリテ王宮|es|Palacio Real de Olite}}を完成させたが、彼が1425年に亡くなった後の王国はもっとも混乱した時代を迎えた{{sfn|バード|1995|pp=121-127}}。1441年に女王の[[ブランカ1世 (ナバラ女王)|ブランカ1世]]が死去すると、共同君主だった夫の[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]]は長男[[カルロス (ビアナ公)|カルロス]]に王位を譲らず、1451年にはナバラ王国の貴族間で[[ナバーラ内戦|ナバラ内戦]]が発生した{{sfn|Monreal|Jimeno|2012|pp=10-15}}{{sfn|バード|1995|pp=127-130}}。1479年に、近隣のアラゴン王国とカスティーリャ王国が統合されてスペベリア半島をン王国になると、イスラーム勢力下にある地域とナバラ王国を除きイベリア半島をほぼしていたので、スペイン王国となると{{sfn|バード|1995|pp=132-135}}、1492年にグラナダを攻略した後には、ナバラ王国の獲得に関心を集中させた{{sfn|バード|1995|pp=132-135}}。
 
=== スペイン王国の中の王国 ===