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[[Image:Petrarch by Bargilla.jpg|right|thumb|200px|ペトラルカ]]
 
'''フランチェスコ・ペトラルカ'''('''Francesco Petrarca''', [[1304年]][[7月20日]] - [[1374年]][[7月19日]])は、[[イタリア]]の[[詩人]]・[[学者]]・[[人文主義者]]。ペトラルカは、学者としては[[キケロ]]に範を取って[[ラテン語の文法]]を整備し、また詩人としては一連の[[抒情詩]]集([[:it:Canzoniere_(Petrarca)|カンツォニエーレ]])を物した。なお、「ペトラルカ」とはラテン語式に付けた名で、本名は'''フランチェスコ・ペトラッコ'''(Francesco (Francesco Petracco) Petracco)
 
== 生涯 ==
中世イタリアの[[アレッツォ]]生まれ。フランチェスコの父、セル・ペトラッコは[[ダンテ]]とも政治的に繋がりのある人物で、[[教皇派と皇帝派|グェルフィ党]](教皇党)白派に属したが、黒派との政争に敗れ、[[フィレンツェ]]を追放された亡命者であった。一家は[[1309年]]に[[アヴィニョン]]に居を移したローマ教皇[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]に従い、1311年[[フランス]]カルパントラに移転。
 
その後、[[モンペリエ大学]](1319年 - 1323年)、[[ボローニャ大学]](1323(1323 - 1325年)で[[法学]]を修めた。はじめは法律を専攻していたが、古典文学を好むようになりペトラルカの主要な関心は詩作などの文筆活動と[[ラテン文学]]にあった。法学や法学生に反感を抱くようになった。
詩人[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ]]と友人になったのもこの頃である。ペトラルカはまた、中世にはだいぶん形の崩れていた[[ラテン語]]を[[古代ローマ]]の古典的作品の形式にならって純正化することを考えた。各地へ旅行して、古代の写本を熱心に研究した。
 
[[1326年]]に父の死を受けて、ペトラルカは[[教皇庁]]のあるアヴィニョンへ戻り、経済上の理由から[[コロンナ家|ジョヴァンニ・コロンナ]]ら、カトリックの聖職者のもとで書記として働いた。法学の勉強をやめていた。その後は休む暇なく執筆や読書に勤しんだ。ペトラルカは詩人また学者として名声を博し、[[1341年]]には[[ローマ]]カンピドリオの丘において[[桂冠詩人]](poeta(poeta laureatus)laureatus)の栄を受けた。
 
ペトラルカの作品で、もっとも知られる作品はラウラと呼ばれる女性へ捧げられた一連の恋愛[[抒情詩]]群である。これは『カンツォニエーレ』(''[[:it:Canzoniere_(Petrarca)|Canzoniere]]'', 歌の本)と題された詩集にまとめられている。
[[1327年]]、アヴィニョンのある教会でペトラルカはラウラの顔を初めて見たというが、この女性についてはほとんど知られていない。ラウラが実際に誰かについては諸説あり、ラウラという名前は、ペトラルカがこの女性に与えた変名である可能性もある(恋愛詩において相手の女性を匿名にすることは古典期のラテン詩人にも類例がある)。謎の恋人とペトラルカは、実際には交際を持たなかった可能性が強い。ペトラルカとラウラはその後、会うこともなく、[[1348年]]にラウラは死亡したという。ペトラルカはその後も、ラウラを失った悲嘆を歌う詩など、ラウラへ充てた詩を書き続けた。
 
このほか『凱旋』(1352年)『アフリカ』(1338年)といった壮大な叙事詩も書き残している。ペトラルカは、後半生を北イタリアを旅行しつつ、学者として過ごした。生涯結婚しなかったペトラルカであるが、3人の子をもったことが知られている。子どもたちの母親は不詳のままである。
 
[[1347年]]と[[1354年]]、ローマの再興を図る[[ニコラ・ディ・リエンツォ]]のコーラ革命に期待を寄せるがコーラの失脚(処刑)で政治に失望する。[[1353年]]から8年間はミラノの[[ヴィスコンティ家]]のもとに身を寄せるが、ミラノとフィレンツェは対立関係にあったため、友人ボッカッチョからも批判を受けた。1361年、ベェネツィアへ移住する。
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== 邦訳書 ==
*ルネサンス書簡集 ([[近藤恒一]]訳、[[岩波文庫]])
*わが秘密 (近藤恒一訳、岩波文庫)
*無知について (近藤恒一訳、岩波文庫、2010年)
*ペトラルカ=ボッカッチョ往復書簡 (近藤恒一編訳、岩波文庫、2006年)
*カンツォニエーレ  俗事詩片 ([[池田廉]]訳、[[名古屋大学出版会]])
*ペトラルカ  凱旋 (池田廉訳、名古屋大学出版会、2004年)
 
==参考文献==
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=== 日本語によるペトラルカ研究 ===
*近藤恒一 『ペトラルカ  生涯と文学』([[岩波書店]]、2002年)
*近藤恒一 『ペトラルカと対話体文学』([[創文社]]、1997年)
*近藤恒一 『ペトラルカ研究』(創文社、1984年)
*佐藤三夫 『ヒューマニスト・ペトラルカ』(ルネサンス叢書:東信堂、1995年) 
 
== 関連項目 ==