「石川啄木」の版間の差分

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[[1887年]](明治20年)3月、1歳の時に、父が渋民村(現在の盛岡市渋民)にある[[宝徳寺 (盛岡市)|宝徳寺]]住職に転任したのにともなって一家で渋民村へ移住する。
 
[[1891年]](明治24年)5歳。学齢より一歳はやく渋民尋常小学校に入学。[[1895年]](明治28年)9歳、盛岡高等小学校(現・[[下橋中学校]])に入学、[[1898年]](明治31年)12歳、岩手県盛岡尋常中学校({{拡張漢字|啄}}木入学の翌年、岩手県盛岡中学と改名、現[[岩手県立盛岡第一高等学校|盛岡一高]])で学んだ。三年先輩に金田一京助がた。また、10年後には[[宮沢賢治]]が入学する。盛岡高等小学校に入学し、市内の母方の叔父の元に寄寓する<ref>池田功著『{{拡張漢字|啄}}木日記を読む』新日本出版 2011年 178ページ</ref>。
 
中学時代に、のちに妻となる[[堀合節子]]や、親友の[[岡山不衣]]、[[金田一京助]]らと知り合う。『[[明星 (文芸誌)|明星]]』を読んで[[与謝野晶子]]らの[[短歌]]に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの[[野村胡堂]])や[[及川古志郎]]らの影響を受け、[[文学]]への志を抱く。短歌の会「白羊会」を結成したのもこの頃である。[[1901年]](明治34年)12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、{{拡張漢字|啄}}木の作品も「翠江」の筆名で掲載される。これが初めて活字となった{{拡張漢字|啄}}木の短歌だった。
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== エピソード ==
* 中学時代、カンニングがばれたり出席日数不足や成績の悪さから退学勧告を受け中学を退学した。
* 母カツは四人の子供の中で唯一の男児だった{{拡張漢字|啄}}木を溺愛していた。息子が丈夫になることを願い、自らは肉を食べることを絶ったという。
* カツと節子は非常に仲が悪く、一家が病に見舞われるまでは家の中は冷戦状態だった。
* {{拡張漢字|啄}}木は亡くなる前、節子に[[日記]]を燃やすように命じたが、節子は「愛着から燃やす事ができませんでした」と日記を金田一に託した。ただし彼女がこの日記を読んだかどうかは不明である(日記は浅草に通い娼妓と遊んだ件がローマ字で書かれているが、才女として知られていた節子ならローマ字の文を読むことは可能だったと考えられている)。
* 新詩社で収入を得るために行っていた短歌の添削指導で依頼人の菅原芳子に懸想し、熱烈な恋文を送っている。その一方で他の依頼人の平山良子に送られた写真に一目惚れしこちらにも恋文を送るも、実は「平山'''良太郎'''」という名の男性だった<ref>女性なら啄木は快く添削に応じてくれると思い、知人の人気芸者の写真を送ったのである</ref>という痛い目にも遭っている。
* {{拡張漢字|啄}}木は所謂いわゆる「たかり魔」で、困窮した生活ゆえに頻繁に友人知人からお金をせびっていた。特に先輩の[[金田一京助]]は[[樺太]]に出張中にも{{拡張漢字|啄}}木から金の無心を受けた。
* 上述のように{{拡張漢字|啄}}木は各方面に借金をしており、またそのことを自身で記録に残しているが、合計すると全63人から総額1372円50銭の借金をしたことになる。この金額の内、返済された金額がどれくらいあるかは定かではない(2000年頃の物価換算では1400万円ほど<ref name="takuboku_sugao">[http://www5.hokkaido-np.co.jp/bunka/takuboku/sugao08.php3 北海道新聞:啄木の風景 <8> 借金編 素顔の啄木像 ―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く]</ref>)。この借金の記録は、宮崎郁雨(合計額として最多の150円の貸し主)によって発表されたが、発表の後には啄木の評価は「借金魔」「金にだらしない男」「社会的に無能力な男」というのが加わるようになった<ref name="takuboku_sugao" />。
* {{拡張漢字|啄}}木は友人宛の手紙で[[蒲原有明]]を「余程食へぬやうな奴だがだましやすい」、[[薄田泣菫]]や[[与謝野鉄幹]]を「時代おくれの幻滅作家」と記すなど、自身が影響を受けたり世話になった作家を侮辱したほか、友人からの援助で生活を維持していたにもかかわらず「一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと」と詠んだ句を遺すなど傲慢不遜な一面もあった。
 
== 脚注 ==