「赤松時勝」の版間の差分

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| 生誕 = [[永享]]5年([[1433年]])
| 死没 = [[康正]]元年([[1455年]])
| 改名 = 千代丸性尊
| 別名 =
| 戒名 = 勝岳性尊
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'''赤松 時勝'''(あかまつ ときかつ)は、[[室町時代]]中期の[[武将]]。[[赤松満祐]]の甥に当たる。
 
赤松満祐の実弟・[[赤松義雅]]の子。父の義雅は[[嘉吉の乱]]で兄に協力して幕府軍の追討を受け、9月に[[城山城 (播磨国)|城山城]]が落城すると寄せ手の一手を務めていた赤松一族の[[赤松満政]]に降参した。しかし義雅は満祐の弟であるとして許されずに自害させられ、当時9歳の幼児だった時勝(千代丸)は満政の庇護を受けて室津に隠された。やがて満政の手配により、[[建仁寺]]の[[天隠龍沢]]に庇護され、その天隠により[[大納言]]の[[三条実量]]に身柄を渡され<ref>『赤松盛衰記』『赤松播城録』では[[正親町三条公綱]]の娘とされている。『赤松円心・満祐』[[吉川弘文館]]。253頁。</ref>、所領のあった[[近江国|近江]]浅井郡丁野村の[[成願寺 (東近江市)|成願寺]]で密かに養育された<ref>『浅井三代記』に丁野が三条家の所領であるとみられている。『赤松円心・満祐』[[吉川弘文館]]。253頁。</ref>。
 
はじめは僧侶として育てられたが、のちに[[還俗]]して時勝と名乗った。康正元年(1455年)に23歳の若さで死去した<ref>『天隠略伝』と『東山塔頭略伝』大昌院の項では康正元年没であるが、『赤松氏族譜』では[[延徳]]3年([[1491年]])に59歳で没としている(これに関しては誤記とされている)。『赤松円心・満祐』[[吉川弘文館]]。254頁・269頁。</ref>。