「玉椿憲太郎」の版間の差分

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[[1911年]](明治44年)1月、[[新橋倶楽部事件]](力士が待遇改善を求めてストライキを起こした事件)が起きる。この時玉椿は、「たとえ、師匠たちが悪いにしろ、恩師に弓を引くわけにはいかない」と言い、また独自に協会の収支決算も調査し「協会には借金があるのだから力士の要求は実現不可能」だとして、関脇以下ではただ1人ストライキに不参加。しかしこれによって事件を起こした力士達からは敵視され、事件解決時の覚書に「玉椿問題は、無条件にて本問題の解決と同時に和解せしむる事」という一項目がわざわざ付け加えられることとなった。
 
事件以後も土俵の上では好調が続き、同年6月場所には[[優勝旗手]]となったが、西潟の優勝は[[東西制]]導入以降初であった<ref name="keigaku">『大相撲中継』2017年11月18日号 pp.86-87.</ref>。三役には最高5場所連続で在位し年2場所の時代に関脇4場所、小結7場所を勤めた。しかし[[1914年]]([[大正]]3年)ごろから力に陰りが見え始め成績が低下。[[1916年]](大正5年)1月場所を最後に引退して[[年寄]][[白玉 (相撲)|白玉]]を襲名。引退相撲では得意の[[弓取式|弓取]]を行なった。この時、国技館は開設以来初めて満員になるほど人が集まったという。
 
引退後は、新橋倶楽部事件が尾を引き、年寄の役員になっていた当時の力士たちから冷遇されたため、[[勝負審判|検査役]]にもなれず最後まで平年寄のままであった。この頃には[[早稲田大学]]で相撲師範も務めている。兄弟子の梅ヶ谷である雷親方が[[1927年]](昭和2年)に死去した後、弟子を引き取って[[白玉部屋]]の看板を掲げたが、それから間もない1928年(昭和3年)9月19日に心臓病が悪化して死去。44歳。墓所は[[東京都]][[葛飾区]][[亀有]]の蓮光寺。