「田口卯吉」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
脚注の追加
m編集の要約なし
15行目:
[[実業家]]としては、東京府知事・[[高崎五六]]から提案された府の[[士族授産]]金処理事業としての南洋交易を引き受け、明治23年([[1890年]])に[[南島商会]]を組織し、貿易船天祐丸で南洋渡航を行う。東京株式取引所(現[[東京証券取引所]])、[[鉄道]]経営においては明治20年([[1887年]])に[[両毛鉄道]]社長、21年に小田原電気鉄道(現[[箱根登山鉄道]])取締役などを務める。
 
明治23年(1890年)には府会副議長となり、明治27年(1894年)には[[尾崎三良]]らと[[帝国財政革新会]]を結成し、この年には衆議院議員に当選する<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1350244/42 『衆議院議員総選挙一覧 明治45年2月』衆議院事務局、1912年、p.66]</ref>。明治29年([[1896年]])には[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]を結成、明治30年([[1897年]])には島田三郎らと財政整理期成同盟会を組織する。明治31年([[1898年]])、[[憲政党]]創設委員に参加。明治32年([[1899年]])には法学博士となる<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1749208/131 『大日本博士録 第壹卷』発展社、1921年、pp.27-28(法学博士之部)]</ref>。明治33年([[1900年]])、[[義和団の乱]]に際して視察を行う。晩年『[[国史大系]]』、『[[群書類従]]』の編纂に道筋をつけた。ほとんど独力で行われたこれらの編纂・出版事業を評して[[鳥谷部春汀]]は「利益のみを目的としては決して企てることができない、文壇への慈善事業である」と賞賛している。
 
明治38年(1905年)、慢性腎炎のため死去<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)17頁</ref>。