「閑山島海戦」の版間の差分

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~を鑑み、の誤謬を是正
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名古屋大学文学部、1969年、268-269頁 http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/9907</ref>であることを考えると、発見数と戦果は過大申告である。(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は900人)。
 
韓国では、脇坂安治の軍の兵力が5000~12000人、戦死者数5000~9000人などとする史実・資料を鑑み検証しないまま、つまり全く学術的な方面を無視して、兵力・死傷者を10倍に誇張した創作的な主張が行われているが、日本と韓国の史料にそのような記述は存在しない。日本側の史料である『「天正記」第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり」』や「高麗国動御人数帳(島津家文書957号)」に記載されている脇坂安治の兵数は1500人である。また、[[石高]]が3万石程度の大名である脇坂安治が、5000人以上の兵力を動員することは不可能であり非現実的である。3万の石高を鑑みから推定すれば1500人の動員数は妥当である。慶長の役においても、脇坂安治の動員数は1200人<ref>「秀吉朱印状・慶長二年(1597)二月二十一日」陣立書</ref>である。1600年の関ヶ原の合戦での脇坂安治の動員数は900人であった<ref>参謀本部 関ヶ原役</ref>。
 
文禄の役での動員数の例<ref>吉川弘文館、中野等、文禄・慶長の役、p33</ref>
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== ・出典 ==
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<references />
 
== 関連項目 ==