「金剛峯寺」の版間の差分

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=== 中世・近世 ===
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、武力を蓄えていた高野山は、[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]や[[石山合戦]]を行った[[織田信長]]と対立するようになった。[[天正]]9年([[1581年]])、信長に謀反した[[荒木村重]]の家臣のうち数名が高野山に逃げ込み、信長は使者を送ってこれらの引き渡しを求めたが、高野山側は信長の使者を殺し要求にも応じなかったため、信長は日本各地にいた高野山の僧を数百名殺害し(1000人強とする説も)、さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長が[[本能寺の変]]に倒れたため、高野山は取り敢えず難を免れた。続く[[豊臣秀吉]]は、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけたが、当時高野山にいた武士出身の僧・[[木食応其]]が仲介者となって秀吉に服従を誓ったため、石高は大幅に減らされたものの、高野山は存続することができた。のちに秀吉は[[応其]]に帰依するようになり、寺領を寄進し、また亡母の菩提のため、山内に[[青巌寺]](現在の総本山金剛峯寺の前身)を建てた。青巌寺は秀吉の甥・[[豊臣秀次]]が[[切腹|自刃]]した場所としても知られている。
 
[[ファイル:091031 Takamuroin Koyasan Wakayama pref Japan01s3.jpg|thumb|高室院]]