「藤原成親」の版間の差分

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[[平治の乱]]では藤原信頼とともに武装して参戦する。敗北後、信頼が処刑されたのに対して、成親は妹・[[藤原経子 (藤原家成の四女)|経子]]が[[平重盛]]の妻であったことから特別に助命され、処分は軽く[[解官]]にとどまった。『[[愚管抄]]』によれば、「フヨウノ若殿上人」<ref>「フヨウ」の意味については「不要」(取るに足らない)の他に、「芙蓉」(美貌)、または「武勇」とする解釈もある(元木泰雄「藤原成親と平氏」『立命館文学』605、2008年)。</ref> とみなされたという。
 
[[永暦]]2年([[1161年]])4月、成親は右中将に還任する。美福門院の死後、後白河院政派と二条親政派の対立は激化しており、後白河院は自らの政治基盤の強化を意図していた。しかし同年79月に、[[平時忠]]らが憲仁親王(のちの高倉天皇)を皇太子に立てようとする[[陰謀]]が発覚すると、[[二条天皇|二条]]はただちに後白河院の近臣を解官した。成親もその中に含まれており、翌年には召還されるものの昇進は停滞し、二条親政下の政界では雌伏を余儀なくされる。
 
二条天皇死後の[[仁安 (日本)|仁安]]元年([[1166年]])正月、成親は左近衛中将に任じられる。後白河院の復権の恩恵を受けて、同年6月[[蔵人頭]]、8月[[参議]]、12月には5人の上臈を超えて、29歳にして[[正三位]]に叙せられた。この年の10月には憲仁親王の立太子が実現し、後白河院は[[平清盛]]の後援を得て[[院政]]を本格的に開始した。成親は翌年、[[中納言|権中納言]]となる。平重盛の義兄であることから重盛との関係は親密で、[[建春門院新大納言|成親の娘]]はのちに重盛の嫡子・[[平維盛|維盛]]の妻となっている。[[嘉応]]元年([[1169年]])11月、[[高倉天皇|高倉]]の八十嶋祭では経子が[[勅使]]を務め、成親も兄・隆季や平氏一門とともに付き従った。さらに保元の乱の結果、父の頼長に連座して配流されていた[[藤原師長]]が中央に復帰すると、成親は師長に娘を嫁がせてその復権に協力している<ref>元木泰雄は、成親は師長が公家の長である摂関家を、重盛が武家の長である伊勢平氏を掌握させることで自分が両者の後見人として政治の実権を握る構想を抱いていたとみる(元木泰雄「平重盛論」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』(思文閣出版、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収)。</ref>。