「反ユダヤ主義」の版間の差分

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[[1848年]]、イタリア、フランス、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、ドイツ、デンマーク、スイスなどのヨーロッパ各地で[[1848年革命]]が起こった。
 
[[ドイツにおける1848年革命|ドイツ三月革命]]では、[[ドイツ連邦]]の国家統一と憲法制定を目指して、民族的自由を獲得することが目指された<ref>「三月革命」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref><ref>[[山田晟]]『ドイツ近代憲法史』東京大学出版会 1963年、1975 年 p.6-7. 山岸喜久治「1848 年「3 月革命」とドイツ近代立憲主義の萌芽―混乱からフランクフルト(パウル教会)憲法の制定へ――」宮城学院女子大学、『人文社会科学論叢』No. 23,2014.</ref><ref>柳澤治『ドイツ三月革命の研究』岩波書店 ,1974年</ref>。ドイツ三月革命の目標は、フランスが革命で実現した「国民」、つまり、階級や宗教にかかわりなく人民の権利が保障される共同体としての「国民」を、ドイツで実現することであった<ref name="y-w-71-83"/>。ドイツ三月革命によってユダヤ人に参政権が認められた<ref name=uem/>。統一的な選挙規則のないままであったが、選出された議員による憲法制定国民議会では四人のユダヤ教徒の議員がいた<ref name=uem/>。そのユダヤ教徒の一人[[ガブリエル・リーサー]]は「イスラエル民族」は虚構にすぎないと指摘して、「ユダヤ教徒は公正な法律の下で、ますます熱烈な、そしてますます愛国的なドイツの信奉者となるでしょう」と演説し、満場の拍手で迎えられた<ref name=uem/>。また[[オットー・フォン・ビスマルク]]議員(のち宰相)は「私はユダヤ教徒の敵ではない。また、彼らが私の敵であろうとも、私は彼らを許す。どんな場合にも、私は彼らを愛する。私は彼らに対してどんな権利も惜しまない。ただ彼らがキリスト教国家における行政上の官職に就く権利だけは認めるわけにはいかない」と演説した<ref name=uem/>。こうして、自由主義的な統一ドイツ国家を創出した[[三月革命]]の大義の下、「ユダヤ教徒の解放」はドイツのナショナリズムと幸福な結合として位置づけられる<ref name=uem/>。しかし、同年9月28日には[[バーデン大公国]]ヴァルデルン市から「ユダヤ教徒の解放は断じて民族の声ではなく、ドイツ民族はドイツカトリック教徒との同権を要求していない」と請願が出された<ref name=uem/>。また、同じ[[1848年]]に、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した<ref name="po405"/>。
 
[[ファイル:Dresdner Maiaufstand.jpg|thumb|ドレスデン五月蜂起。]]
また、同じ[[1848年]]に、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した<ref name="po405"/>。
 
翌年の[[1849年]]3月28日、[[フランクフルト国民議会]]が[[パウロ教会憲法|統一ドイツ憲法]]を採択し、プロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]を統一ドイツ皇帝選出したが、王人民主権の原則を持つ憲法を「犬の首輪」として嫌い、帝冠も憲法も拒否した<ref name="d-Ft">[[#ドイツ史 2|ドイツ史 2巻]],p.320-322,339.</ref>。その後、ドイツ各地の邦国で帝国憲法を承認することを求める帝国憲法闘争が展開するなか、フランクフルト国民議会は解体した<ref name="d-Ft"/>。4月末、ザクセンでは祖国協会などの革命勢力帝国憲法の承認を求めたが、ザクセン王[[フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]は拒否し、上下両院を解散させた<ref name="y-w-84-91"/>。このため、5月3日に[[バクーニン]]が指揮した[[ドイツにおける1848年革命#1849年の革命の経過|ドレスデン五月蜂起]]が起きた<ref name="y-w-84-91"/>。しかし、ザクセン王はプロイセン軍に敗北を派遣て蜂起を鎮圧した<ref name="y-w-84-91"/>。革命の失敗後、「ユダヤ教徒解放」は撤回された<ref name=uem/>。しかし、ザクセン、ワイマール、アイゼナハなどではユダヤ教徒の法的平等が実現し、ユダヤ教徒が大学教授や裁判官に就任するなど、ユダヤ教徒の解放は進展した<ref name=uem/>。
 
=== 19世紀イギリス ===