「エカテリニ (ギリシャ王女)」の版間の差分

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父が1917年に廃位され、次兄[[アレクサンドロス1世 (ギリシャ王)|アレクサンドロス1世]]が王位につくと、幼いエカテリニは両親に連れられて[[スイス]]に亡命した。父王はアレクサンドロス1世が1920年に死ぬとつかのま復位したが、1922年に再び廃位され、今度は[[シチリア]]に亡命した。父王は翌1923年に[[パレルモ]]で客死した。王家は[[フィレンツェ]]のヴィラ・スパルタに引っ越し、ここでエカテリニは絵を描くようになった。父が2度目に廃位された後、[[ゲオルギオス2世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス2世]]が短期間王位についたが、1924年には退けられた。
 
エカテリニはイングランドの寄宿学校で教育された。エカテリニの母フィ王妃は1932年に亡くなったが、エカテリニはその後も次姉イリニと一緒にヴィラ・スパルタに住み続けた。1934年に従姉の[[マリナ (ケント公爵夫人)|マリナ]]がイギリス王[[ジョージ5世]]4男[[ジョージ (ケント公)|ケント公]]と結婚したとき、エカテリニはヨーク公女エリザベス(後の女王[[エリザベス2世]])と一緒にブライズメイドを務めた。
 
1935年に長兄ゲオルギオス2世が復位すると、エカテリニも姉イリニとともにギリシャに帰国した。1939年に[[第2次世界大戦]]が起きると、エカテリニはギリシャ[[赤十字]]に参加した。1941年、彼女は三兄パウロスと一緒に[[南アフリカ]]に赴き、[[ケープタウン]]で従軍看護婦として働いた。エカテリニは1946年にエジプトからイングランドに向かう蒸気船「アスカニア」号に乗って再びイギリスに移住したが、この船上でイギリス砲兵部隊の将校リチャード・ブランドラム少佐(1911年 - 1994年)と出会った。2人はイングランドに到着して三週間後に婚約し、1947年4月21日にアテネ王宮で結婚式を挙げた。長兄ゲオルギオス2世はエテカリニの結婚式直前に亡くなったため、その後を継いでいた三兄[[パウロス1世 (ギリシャ王)|パウロス1世]]が結婚の仲人を務めた。