「反ユダヤ主義」の版間の差分
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[[ロシア帝国内務省警察部警備局]]パリ部長のピョートル・ラチコフスキーが作成を命じた『シオン賢者の議定書』(1899年)では、ユダヤ人が世界を支配して、すべての民をモーセの宗旨の前に平伏させることが望まれていた<ref name="po-4-79-100"/>。シオンの賢者は、シオン血統の専制君主のために、「自由、博愛、平等」のスローガンを考案し、フランス革命を起こして、シオンの専制君主が全世界の法王となることを画策した、とされる<ref name="po-4-79-100"/>。こうした陰謀論は、イエズス会、フリーメイソンを悪役とする陰謀論でもみられた<ref name="po-4-79-100"/>。しかし、ストルイピン大臣が憲兵隊に調査を命じると、この文書が偽書であることが判明したため、皇帝ニコライ2世はこの文書の廃棄を命じため、ラチコフスキーの立身出世には役に立たなかった<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.145.</ref>。ラチコフスキーはその後、反ユダヤ団体[[黒百人組]]のロシア民族同盟の結成に関わった<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.146.</ref>。
ロシアでのユダヤ人行政が強硬になると、ユダヤ人は[[アメリカ合衆国]]へ移住したり、またユダヤ人の間では、パレスチナへの愛とシオニズムが広まっていったが、[[1903年]]にはロシア政府がシオニズムを禁止した<ref name="po-4-122-144"/>。同[[1903年]]には
[[1904年]]から[[1905年]]にかけての[[日露戦争]]では、反ユダヤのパンフレットが招集兵に配布され、ユダヤ人がロシア敗戦のスケープゴートとされた<ref name="po-4-156-183"/>。
[[ファイル:Bund Odessa 1905.jpg|thumb|right|300px|1905年、[[オデッサ]]でのポグロムで殺害されたブンド党員。]]
[[1905年]]の[[ロシア第一革命]]について皇帝[[ニコライ2世]]は[[十月詔書]]直後に革命運動の9割がユダヤ人であったため、民衆によって反ユダヤのポグロムが起こったと母親への手紙で報告し、2ヶ月後にはユダヤ人国際的共同行動についての法案が認可した<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.150.</ref>。ロシア政府は「[[革命家]]」を「ユダヤ人」の[[類義語]]としていた<ref name="po-4-29-48"/>。また、ニコライ2世はユダヤ人の破壊活動に脅かされているドイツとカトリック教会との協調路線外交を支持した<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.150-151.</ref>。モスクワに発した暴動は、ポーランドやロシア各地でも勃発しており、[[セルゲイ・ヴィッテ|ヴィッテ]]や[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]首相もユダヤ人組織が世界規模で動いていると考えていた<ref>[[#ポリアコフ 4|ポリアコフ 4巻]],p.150-152.</ref>。他方、革命運動におけるユダヤ人の活動については、ロシア・マルクス主義の父と称される[[ゲオルギー・プレハーノフ]]は、ユダヤ人活動家を「ロシア労働者軍の前衛部隊」として、またレーニンもユダヤ人の国際主義と前衛的な運動に対するユダヤ人の敏感さを賞賛した<ref name="po-4-122-144"/>。
*[[1913年]] - ロシアで[[ベイリス事件]]が起こる。ユダヤ人メンデル・ベイリスが「儀式殺人」の疑いで逮捕されたが、根拠のないでっちあげだとして抗議された<ref>「ベイリス事件」[[世界大百科事典]] [[平凡社]]</ref>。
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