「マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1858-1929)」の版間の差分

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'''マリア・クリスティーナ・デジレ・ヘンリエッテ・フェリツィタス・ライニエラ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン'''({{lang|de|Maria Christina Desiree Henriette Felicitas Rainiera von Habsburg-Lothringen}}, [[1858年]][[7月21日]] - [[1929年]][[2月6日]])は、[[スペイン]]王[[アルフォンソ12世 (スペイン王)|アルフォンソ12世]]の2度目の王妃。[[スペイン語]]名は'''マリア・クリスティーナ・デ・アブスブルゴ=ロレーナ'''({{lang|es|María Cristina de Habsburgo-Lorena}})または'''マリア・クリスティーナ・デ・アウストリア'''({{lang|es|María Cristina de Austria}})。
 
== 人物 ==
[[オーストリア帝国|オーストリア]]大公[[カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール・フェルディナント]](父は[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]の三男[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|テシェン公カール]])とその妻であるオーストリア大公女[[エリーザベト・フランツィスカ・フォン・エスターライヒ|エリーザベト・フランツィスカ]](父はレオポルト2世の八男[[ヨーゼフ・アントン・フォン・エスターライヒ|ヨーゼフ]]大公)の娘として、[[モラヴィア]]で生まれた。異父姉に[[バイエルン王国|バイエルン]]王[[ルートヴィヒ3世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ3世]]の王妃[[マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ=エステ (1849-1919)|マリア・テレジア]]がいる。
 
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[[1885年]]に王が病死したとき、マリアは第3子を妊娠中だった。生まれた子が女児の場合は、王位につくのは長女[[マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・ボルボーン・イ・アブスブルゴ=ロレナ|メルセデス]]、男児の場合はその誕生とともに即位することに決められた。結果、生まれたのは男児だったため、[[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]としてただちに即位し、成人するまでの間マリアが幼王の摂政をつとめた。
 
== 子女 ==
 
== 子供 ==