「オレグ (クルスク公)」の版間の差分

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上記の内容とは異なる説として、本頁のオレグは、史料の[[1226年]]の項に言及される、チェルニゴフ公[[イーホル・スヴャトスラーヴィチ|イーゴリ]]の子のオレグと同一人物とする説や<ref>Грушевський М. С. [http://litopys.org.ua/index.html Історія України-Руси. Том II. Розділ V]</ref>、ムスチスラフがカルカ河畔の戦いで死亡した後のチェルニゴフ公は[[コンスタンチン・オリゴヴィチ|コンスタンチン]]という人物だとする説がある<ref>Горский А. А. [http://www.slideshare.net/Kolovrat7520/xiiixiv Русские земли в XIII—XIV веках]</ref>。
 
妻子に関しては、妻の名は不明である。子については、『[[リューベチ・シノディク]]』{{refnest|group="注"|地名については[[リューベチ]]参照。シノディクは露和辞典上は「過去帳」等と訳されているが<ref>井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年、p996</ref><ref>東郷正延ら編 『研究社露和辞典(携帯版)』 研究社、1988年、p2089</ref><ref>和久利誓一ら編 『岩波ロシア語辞典』 岩波書店、1992年、p1762</ref>、厳密には[[:ru:Синодик]]参照。}}に名のあるクルスク公ユーリー<ref>Любецкий синодик (поз. 64)</ref>、クルスク公ドミトリー<ref>Любецкий синодик (поз. 62)</ref>、『Воскресенская летопись[[:ru:Воскресенская летопись|(ru)]]』(16世紀の[[ヴォスクレセンスカヤ年代記]]に言及される[[ヤロスラヴリ公]][[フセヴォロド・コンスタンチノヴィチ|フセヴォロド]]の妻となったオリガ<ref>ПСРЛ, т. 7. Воскресенская летопись. — СПб., 1856. — С. 134.</ref>の三名を、オレグの子とみなす説がある<ref name='Войтович Л.'></ref>。
 
==脚注==