「反ユダヤ主義」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
89行目:
[[7世紀]]、[[メロヴィング朝]]フランク王[[ダゴベルト1世|ダゴベルトゥスⅠ世]]は、[[ヘラクレイオス|ヘラクリウス]][[東ローマ皇帝]]の要請でユダヤ人を追放した<ref name="po-1-50-59">[[#ポリアコフ 1|ポリアコフ 1巻]],p.50-59.</ref>。
 
[[カロリング朝]][[フランク王国]]ではユダヤ人の大商人が活躍していたおり<ref name="po-1-50-59"/>、カロリング時代には、「ユダヤ人」は「商人」と同義語でもあった{{Sfn|大澤武男|1991|p=18}}。ユダヤ人は王室の庇護を受けて、キリスト教共同体に対して改宗活動を展開したが、これにキリスト教聖職者は反発した<ref name="po-1-50-59"/>。

フランク王[[ピピン3世]](在位[[751年]] - [[768年]])が、南フランスのイスラム拠点であった[[ナルボンヌ]]を攻略した時、武器援助をしたユダヤ人にナルボンヌの半分を与えたという伝承がある{{Sfn|大澤武男|1991|pp=16-17}}。
 
フランク王・ローマ皇帝[[カール大帝]](在位:[[768年]] - [[814年]])は、キリスト教への改宗を国民にも強制したが、ユダヤ人は「聖書の民」であるため、ユダヤ教の信仰を許可した{{Sfn|大澤武男|1991|p=17}}。また、ユダヤ人は自由通商貿易を許可され、ユダヤ人共同体内での裁判権も許可された{{Sfn|大澤武男|1991|p=17}}。イスラム教とキリスト教の境界が確定したからは、キリスト教世界にとって東方との交易が難しくなったため、ユダヤ人商人が東方交易に乗り出し、ペルシャ、インド、中国まで進出した{{Sfn|大澤武男|1991|p=17}}。[[801年]]、カール大帝の使節がバグダードのカリフ、ハルン・アル・ラシドと交渉した時は、ユダヤ人イザアクが通訳と交渉をした{{Sfn|大澤武男|1991|p=18}}。
 
[[839年]] - [[フランク王国]]の[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|皇帝ルートヴィヒ1世]](ルイ1世、ルイ敬虔王)の宮廷助祭ボード (Bodo) がユダヤ教に改宗。ルイ敬虔王はユダヤ教徒に改宗運動を許可した。リヨン大司教アゴバール(778-840)はルイ敬虔王にユダヤ人による改宗運動を禁ずるよう訴えたが、王はユダヤ人の特権維持を宣言し、ユダヤ行政官エヴラ−ルが派遣されて、アゴバールは追放された<ref name="po-1-50-59"/>。アゴバールはキリスト教共同体のなかにユダヤ教が浸透していくことを嘆いた<ref name="po-1-50-59"/>。アゴバールから20年後、リヨン大司教アモロンはユダヤ教の「感染」からキリスト教教徒を守るため、ユダヤ人の食べ物や飲み物を口にすることを禁じた<ref name="po-1-50-59"/>。