「反ユダヤ主義」の版間の差分

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大不況下の帝政ドイツでは社会主義運動が高まり、[[1875年]]に[[ドイツ社会主義労働者党]]が結成、1878年には反ユダヤ主義で社会主義のキリスト教社会党が結成された。[[1878年]]5月11日と6月2日に元ドイツ社会主義労働者党員によってドイツ皇帝[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]暗殺未遂事件が二度起こると、「社会民主主義の公安を害する恐れのある動きに対する法律([[社会主義者鎮圧法]])」が作られた<ref name="Gartenlaube"/>。
 
===== シュテッカー、マル、トライチュケの反ユダヤ主義 =====
[[File:Adolf Stoecker.jpg|thumb|180px|勤労者キリスト教社会党を創設したアドルフ・シュテッカー司祭 ]]
[[1878年]]、帝宮礼拝堂付司祭アドルフ・シュテッカー(Adolf Stoecker)は、社会主義を穏健なキリスト教社会主義と破壊的なユダヤ社会主義とに区別して、ユダヤ人の市民権制限、公職追放、ユダヤ人移民制限、工場法、利子制限法、[[累進課税]]と[[相続税]]、[[徒弟]]制度などを主張して、勤労者のためのキリスト教社会党(Christlich-soziale Partei)をベルリンで結成し、[[1879年]]にはプロイセン議会議員、[[1881年]]には帝国議会議員となった<ref name="po-4-29-48"/><ref>
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自由主義者のユダヤ人[[ベルトルト・アウエルバッハ]](Berthold Auerbach, 1812-1882)はユダヤ人の平等を訴えてきたが、死の直前、キリスト教社会党のアドルフ・シュテッカーやドイツ保守党のヴィルヘルム・フライヘル・フォン・ハンマーシュテイン<ref>Wilhelm Freiherr von Hammerstein-Gesmold(Wilhelm Joachim von Hammerstein)1838-1904.</ref>のユダヤ人狩りが及んだときに、「自分はドイツ人であり、ドイツ人以外の何ものでもなく、生涯全体を通してもっぱらドイツ人であると感じてきたし、ドイツの風度のひとつの声であった」「消え失せろ、ユダヤ人、おまえはわれわれてとは何の関係もない」と手紙に書いた<ref>[[田島正行]]訳「[[テオドール レッシング]]、ユダヤ人の自己憎悪(1930)(II)」明治大学教養論集504巻、2015年,p112-113.</ref>。
 
===== ニーチェの反キリスト教・反ユダヤ主義 =====
[[File:Nietzsche1882.jpg|サムネイル|180px|哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ]]は反ユダヤ主義を批判しつつも、ユダヤ教とキリスト教は道徳上の奴隷一揆をはじめたと論じた<ref name="po-4-15-29"/>。]]
[[Image:Elisabeth förster 1894b.JPG|thumb|180px|ニーチェの妹[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ]]はナチ党を支援した。]]
大不況によって反ユダヤ主義が高まるなか、哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ]]はユダヤ人に対して繰り返し称賛と感謝を表明し、反ユダヤ主義者を「絶叫者ども」と批判した<ref name="po-4-15-29"/>。ただし、ニーチェは[[1872年]]の『悲劇の誕生』の頃までは反ユダヤ的な偏見を持っており、また東欧ユダヤ人のドイツ流入には後年でも反対だった<ref name="uey-17-39"/>。[[1869年]][[5月22日]]のワーグナーへの手紙では、ショーペンハウアーを引き合いに出し、ドイツの豊かな世界観が、「哲学上の狼藉や押しの強いユダヤ気質」によって消え去ったと嘆いた<ref name="uey-17-39"/>。
大不況によって反ユダヤ主義が高まるなか、哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ]]はユダヤ人に対して繰り返し称賛と感謝を表明し、反ユダヤ主義者を「絶叫者ども」と批判した<ref name="po-4-15-29"/>。ニーチェは[[1878年]]の『人間的な、あまりに人間的な』で「ヨーロッパをアジアに対して守護したのはユダヤの自由思想家、学者、医者だった」として、ユダヤ人によってギリシア・ローマの古代とヨーロッパの結合が破壊されずにすんだことについては、ヨーロッパ人は大いに恩に着なければならない、と述べた<ref name="po-4-15-29"/>。[[1881年]]『曙光:道徳的先入観についての感想』で、ユダヤ人の美徳と無作法、反乱奴隷特有の抑えがたき怨恨について論じたあと、「もしイスラエルがその永遠の復讐を永遠のヨーロッパの祝福に変えてしまうならば、そのときはかの古きユダヤの神が、自己自身と、その創造と、その選ばれた民を悦ぶことができる第七日が再び来るであろう」と、ユダヤ人に人類再生の希望を見た<ref name="po-4-15-29"/>。『[[善悪の彼岸]]』(1886年)では、ヨーロッパはユダヤ人に最善で同時に最悪なもの、すなわち「道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義を持つ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体」を負うており、ユダヤ人に感謝していると書いたあとで、「ユダヤ人がその気になれば、あるいは、反ユダヤ主義者たちがそう欲しているかに見えるように、ユダヤ人をそうせずにいられないように強いるならば、いますぐにもヨーロッパに優勢を占め、いな、まったく言葉通りにヨーロッパを支配するようになりうるであろうことは確実である」と述べて、反ユダヤ主義を批判しつつも、ユダヤ人がヨーロッパ世界の支配者となることに関して述べ、また、ユダヤ古代の預言者は富と無神と悪と暴行と官能を一つに融合し、貧を聖や友の同義語とするなど価値を逆倒し、道徳上の奴隷一揆をはじめたと論じた<ref>『[[善悪の彼岸]]』第250-251節、195節</ref><ref name="po-4-15-29"/>。しかし、[[1888年]]9月の『アンチキリスト』では、「ユダヤ人は人類を著しくたぶらかしたために、キリスト教徒は、自身このユダヤ人の最後の帰結であることを悟らずに、今日なお反ユダヤ的な感情を抱いている」と書いた<ref name="po-4-15-29"/>。ポリアコフはこの箇所で、ニーチェは反ユダヤ的な方向へ屈折したとみている<ref name="po-4-15-29"/>。また、ニーチェの妹[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ]]は夫の[[ベルンハルト・フェルスター]]とともに反ユダヤ主義運動を展開し、のちに[[ナチ党]]の支援者となった。
 
ニーチェは『反時代的考察』(1873年-1876年)で、[[ダーフィト・シュトラウス]]や雑誌『グレンツボーテン』の執筆陣を教養俗物として批判し、雑誌『グレンツボーテン』もニーチェを批判した<ref>[[#上山安敏2005]],p.7-9.</ref>。雑誌『グレンツボーテン』の中心にいた作家グスタフ・フライタークは、皇太子[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]のブレーンであった<ref>[[#上山安敏2005]],p.7.</ref>。ニーチェは[[1875年]]に、キリスト教の勝利とは「粗野な力と鈍感な知識人が、諸民族にあった貴族主義的天才に対しての勝利」であり失敗であったとし、キリスト教によって古代ギリシャの範型が消滅し、またキリスト教はその「ユダヤ的性格」のため、ギリシャ的なものを不可能にした、と論じた<ref name="uey-17-39"/>。
 
ニーチェは[[1878年]]の『人間的な、あまりに人間的な』で「ヨーロッパをアジアに対して守護したのはユダヤの自由思想家、学者、医者だった」として、ユダヤ人によってギリシア・ローマの古代とヨーロッパの結合が破壊されずにすんだことについては、ヨーロッパ人は大いに恩に着なければならない、と述べた<ref name="po-4-15-29"/>。[[1881年]]『曙光:道徳的先入観についての感想』で、ユダヤ人の美徳と無作法、反乱奴隷特有の抑えがたき怨恨について論じたあと、「もしイスラエルがその永遠の復讐を永遠のヨーロッパの祝福に変えてしまうならば、そのときはかの古きユダヤの神が、自己自身と、その創造と、その選ばれた民を悦ぶことができる第七日が再び来るであろう」と、ユダヤ人に人類再生の希望を見た<ref name="po-4-15-29"/>。
 
大不況によって当時「ユダヤセム主義が高まるなか」は哲学者[[フリープロイセン皇帝とビスマルクのリヒ・ニーチェ]]はユダヤ人に対イツ帝国の下でのドイツ統一運動を意味して繰り返し称賛と感謝を表明し、反ユダヤ主義者を「絶叫者ども」と批判した<ref name="pouey-417-15-2939"/>。ニーチェは[[1878年]]の『人間的な、あまりに人間的な』で「ヨーロッパをアジアこれに対して守護したのはユダヤの自由思想家学者、医者だった」として、ユダヤ人によってギリシア・ローマの古代とヨーロッパの結合が破壊されずにすんだことについては、ヨ主義者であったニロッパ人チェ大いに恩に着なければならない、と述べた<ref name="po-4-15-29"/>。[[1881年善悪の彼岸]]『曙光:道徳的先入観』(1886年)いて、「国粋主義ありユダヤ人の美徳と無作法、反乱「畜群」「奴隷特有抑えがたき怨恨について論じた一揆」で、「も批判イスラエルがその永遠の復讐を永遠のヨーロッパの祝福に変えてしまうならば、そのときはかの古きユダヤの神が、自己自身と、その創造と、その選ばれ民を悦ぶことができる第七日が再び来るであろう」と、ユダヤ人に人類再生<ref>善悪希望を見た彼岸261節</ref><ref name="pouey-417-15-2939"/>。さらに『[[善悪の彼岸]]』(1886年)では、ヨーロッパはユダヤ人に最善で同時に最悪なもの、すなわち「道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義を持つ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体」を負うており、ユダヤ人に感謝していると書いたあとで、「ユダヤ人がその気になれば、あるいは、反ユダヤ主義者たちがそう欲しているかに見えるように、ユダヤ人をそうせずにいられないように強いるならば、いますぐにもヨーロッパに優勢を占め、いな、まったく言葉通りにヨーロッパを支配するようになりうるであろうことは確実である」と述べて、反ユダヤ主義を批判しつつも、ユダヤ人がヨーロッパ世界の支配者となることに関して述べ、また、ユダヤ古代の預言者は富と無神と悪と暴行と官能を一つに融合し、貧を聖や友の同義語とするなど価値を逆倒し、道徳上の奴隷一揆をはじめたと論じた<ref>『[[善悪の彼岸]]』第250-251節、195節</ref><ref name="po-4-15-29"/>。しかし、[[1888年]]9月の『アンチキリスト』では、「ユダヤ人は人類を著しくたぶらかしたために、キリスト教徒は、自身このユダヤ人の最後の帰結であることを悟らずに、今日なお反ユダヤ的な感情を抱いている」と書いた<ref name="po-4-15-29"/>。ポリアコフはこの箇所で、ニーチェは反ユダヤ的な方向へ屈折したとみている<ref name="po-4-15-29"/>。また、ニーチェの妹[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ]]は夫の[[ベルンハルト・フェルスター]]とともに反ユダヤ主義運動を展開し、のちに[[ナチ党]]の支援者となった
 
ニーチェはユダヤ教を古代の純粋なユダヤ教と、[[第二神殿]]以降の祭祀ユダヤ教とを区別し、新約聖書は祭祀ユダヤ教を体現したものであり、キリスト教と祭祀ユダヤ教は奴隷道徳を生み出したと批判する一方で、古代の純粋なユダヤ教を称賛した<ref name="uey-17-39"/>。ニーチェは『[[道徳の系譜]]』(1887年)でユダヤ人を「[[ルサンチマン]]の僧侶的民族」とみなしている<ref>『[[道徳の系譜]]』1-16</ref>。
 
[[1888年]]、皇帝ヴィルヘルム2世はルター派教会を把握し、リベラル・プロテスタントは国民主義の担い手となった<ref>[[#上山安敏2005]],p.13.</ref>。ニーチェはその結果、反ユダヤ主義が形成されたとみており、パウロの出自であるユダヤ人を称賛したのは、こうした背景があった<ref name="uey-17-39"/>。さらにニーチェはパウロや使徒によるイエスの神学化を嘘つきでイカサマ師であると非難した<ref name="uey-17-39"/>。
 
[[1888年]]9月の『アンチキリスト』では「ユダヤ人は人類を著しくたぶらかしたために、キリスト教徒は、自身このユダヤ人の最後の帰結であることを悟らずに、今日なお反ユダヤ的な感情を抱いている」と書いた<ref name="po-4-15-29"/>。ポリアコフはこの箇所で、ニーチェは反ユダヤ的な方向へ屈折したとみている<ref name="po-4-15-29"/>。オーバーベックはニーチェの反キリスト教は反ユダヤ主義から来ているとする<ref name="uey-17-39"/>。
 
また、ニーチェの妹[[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ]]は夫の[[ベルンハルト・フェルスター]]とともに反ユダヤ主義運動を展開し、のちに[[ナチ党]]の支援者となった。
 
==== 大不況下のフランス第三共和政 ====