「稲荷森古墳」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
長岡南森古墳について追記。
微修正。
15行目:
|出土品 = [[土師器]]
|指定文化財 = 国の[[史跡]]「稲荷森古墳」
|特記事項 = [[東北地方]]第67位/山形県第1位の規模
|地図 = Japan Yamagata
|アイコン = 前方後円墳-南南西
21行目:
'''稲荷森古墳'''(いなりもりこふん)は、[[山形県]][[南陽市]]長岡にある[[古墳]]。形状は[[前方後円墳]]。国の[[史跡]]に指定されている。
 
山形県では最大、[[東北地方]]では第67位の規模の古墳で<ref group="注" name="規模">東北地方における主な古墳は次の通り。
# [[雷神山古墳]]([[宮城県]][[名取市]]) - 墳丘長168[[メートル]]。
# [[亀ヶ森古墳]]([[福島県]][[河沼郡]][[会津坂下町]]) - 墳丘長127.3メートル。
# 玉山古墳(福島県[[いわき市]]) - 墳丘長110メートルから120メートル程度。
# [[会津大塚山古墳]](福島県[[会津若松市]]) - 墳丘長114メートル。
# [[遠見塚古墳]](宮城県[[仙台市]]) - 墳丘長110メートル。
# 青塚古墳(宮城県大崎市) - 墳丘長100メートル。
# '''稲荷森古墳'''(山形県南陽市) - 墳丘長96メートル。
ただし、南陽市長岡にあっ存在したとされる長岡南森古墳墳丘長約165メートルの前方後円墳であったとする説ある(『やまがたの古墳時代 -最上川流域のムラと古墳-』 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館、2011年、p. 30)。2016年度(平成28年度)にも、長岡南森古墳の航空3次元測量調査において墳丘長161-168メートルにおよぶ可能性が指摘されている([https://mainichi.jp/articles/20171117/ddl/k06/040/046000c "前方後円墳と推定 南陽市教委調査、東北最大級の可能性/山形"](毎日新聞、2017年11月17日記事))</ref>、[[4世紀]]末([[古墳時代]]中期初頭)頃の築造と推定される。
 
== 概要 ==
山形県南部、[[米沢盆地]]北縁で[[吉野川 (山形県)|吉野川]]右岸の長岡丘陵上において、孤立丘の丘尾を切断して築造された大型前方後円墳である{{Sfn|佐藤鎮雄|2004年}}。大型古墳としては日本海側内陸部で最北に位置する{{Sfn|佐藤鎮雄|2004年}}<ref group="注">前方後円墳(大型古墳に限らない)の日本海側内陸部最北は[[坊主窪古墳群]](山形県[[東村山郡]][[山辺町]]大寺)の坊主窪1号墳になる。</ref>。これまでに数次の調査が実施されている。
 
墳形は前方後円形で、前方部を南南西方に向ける<ref name="国指定"/>。墳丘は後円部が3段築成、前方部が1段築成で{{Sfn|稲荷森古墳(平凡社)|1990年}}、旧状を良好に遺存する。墳丘長は約96メートルを測り、山形県では最大、[[東北地方]]で67位の規模になる<ref group="注" name="規模"/>。墳丘表面で[[葺石]]・[[埴輪]]は検出されていないが、墳丘内部から[[土師器]]が出土している{{Sfn|稲荷森古墳(平凡社)|1990年}}。また周濠も存在していないが、墳丘の周囲一定範囲にテラス帯が認められている{{Sfn|佐藤鎮雄|2004年}}。主体部となる埋葬施設は未確認で明らかでないが、一説には石室を持たない[[木棺]]直葬と推測される<ref name="説明板"/>。
 
この稲荷森古墳では、年代観を正確にする埴輪等の資料が出土していないものの、墳形および出土土師器を基に[[4世紀]]末頃([[古墳時代]]中期初頭)の築造と推定されている{{Sfn|佐藤鎮雄|2004年}}。本古墳の築造以前には[[米沢市]]域・[[川西町 (山形県)|川西町]]域・南陽市域の3地域で[[前方後方墳]]を主とする古墳([[天神森古墳]]・宝領塚古墳など)が営まれていたが、稲荷森古墳によってそれら3地域が統合された様相を示すため、稲荷森古墳はそれらを統合した首長(置賜地方の王)により記念碑(象徴)的に築造されたものと考えられている{{Sfn|佐藤鎮雄|2004年}}。しかし稲荷森古墳に続く首長墓はなく、置賜地方の中心地は米沢市域に移ったとされる{{Sfn|佐藤鎮雄|2004年}}。そのほか、稲荷森古墳と大塚山古墳([[宮城県]][[名取市]])・念南寺古墳(宮城県[[色麻町]])・[[堂の森古墳]]([[福島県]][[浪江町]])などとの墳形の類似性を指摘する説や、稲荷森古墳の被葬者が[[東北地方]]最大の[[雷神山古墳]](宮城県名取市)の被葬者と同盟関係にあったとする説もある{{Sfn|山形県の歴史|1998年|pp=28-29}}。