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[[1848年革命]]の失敗によって、それまでコスモポリタン的で寛容なユートピア的なものであった愛国主義が変容し、1850年代にはヨーロッパのナショナリズムは排外的で自己中心的なものとなっていった<ref>ハンス・コーン「ナショナリズム」『西洋思想大事典3』平凡社,p.435-448.</ref>。
 
=== 19世紀イギリス・ディズレーリのユダヤ主義 ===
==== ディズレーリのユダヤ主義 ====
[[File:Benjamin Disraeli by Cornelius Jabez Hughes, 1878.jpg|thumb|[[セファルディム]]系ユダヤ人の[[ベンジャミン・ディズレーリ]]は小説家から政治家へ、さらに急進派から[[保守党 (イギリス)|保守党]]へ転身し、[[イギリスの首相|イギリス首相]](在任:[[1868年]]、[[1874年]] - [[1880年]])となった。[[1848年革命]]についてディズレーリは、[[選民]]たるユダヤ人種が、恩知らずのキリスト教を破壊するために行ったと論じた<ref>Benjamin Disraeli,Lord George Bentinck : A Political Biography, Colburn,1852.(『[[ジョージ・ベンティンク|ジョージ・ベンティンク卿:政治的伝記]]』)</ref><ref name="po435"/>。ディズレーリのユダヤ人を貴種とする思想は、反ユダヤ主義者によるユダヤ陰謀論の典拠ともなった<ref name="po446"/>。]]
 
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ディズレーリのユダヤ主義的な歴史観は、フランスの反ユダヤ主義者グジュノー・デ・ムソー(Roger Gougenot des Mousseaux)やエドゥアール・ドリュモンによって好意的に引用され、ユダヤ人が秘密外交を行っていることはイギリスのユダヤ人首相によって見事に明らかにされたと述べるにいたっている<ref name="po446"/>。また、ナポレオンを嫌っていた歴史学者の[[ミシュレ]]も、ディズレーリのナポレオンユダヤ人説に梃入れした<ref name="po446"/>。
 
==== チェンバレンのアーリア主義 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 119-1600-06, Houston Stewart Chamberlain.jpg|170px|thumb|[[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン]](1855-1927)はヨーロッパ人を[[アーリア人]]と呼び、[[汎ゲルマン主義]]と反ユダヤ主義を唱え、ヒトラーに影響を与えた。]]
 
{{See|アーリアン学説}}
 
[[汎ゲルマン主義]]で反ユダヤ主義の[[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン]]は、[[1899年]]の著書『19世紀の基礎』で、ヨーロッパ人を[[アーリア人]]と呼び、その支配者はゲルマン系の[[テウトネス族|チュートン人]]とノルド人として、アーリア人を高貴な人種とした<ref> Houston Stewart Chamberlain,The Foundations of the Nineteenth Century,1899.</ref><ref>ポリアコフ『アーリア神話−ヨーロッパにおける人種主義と民族主義の源泉』法政大学出版局 1985、アーリア主義研究会訳、石堂清倫・平川俊彦</ref>。『19世紀の基礎』は多大な反響をよび、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]、[[セオドア・ルーズベルト]]、[[バーナード・ショー]]、[[レフ・トルストイ]]が称賛した<ref name="po-4-29-48"/>。『19世紀の基礎』でもディズレーリのユダヤ主義的人種決定論が引かれた<ref name="po446"/>。チェンバレンはイギリスからドイツへ渡り、ドイツへ帰化し、[[リヒャルト・ワーグナー]]の娘エーファと結婚した。
 
=== イタリア統一と教皇領の消滅 ===