「ハリー・パークス」の版間の差分

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=== 駐日英国公使 ===
[[1865年]]([[慶応]]元年)、前年の[[四国艦隊下関砲撃事件]]に際して、オールコックは下関攻撃に対する主導的な役割を果たしたが、日本との全面戦争につながりかねないその行動英国政府の意に沿うものではいとしてく、オールコックは公使を解任された。パークスは、オールコックの後任公使に任命され、[[横浜市|横浜]]に到着した<ref>赴任の途中に寄航した長崎で、近々幕府を倒す内乱が発生するとの噂を聞いている。</ref>。
幕府との交渉を開始するが<ref>パークス赴任前に代理公使を務めたアレクサンダー・ウィンチェスターが本国に天皇の勅許を求めるとこと提唱しており、本国政府はそれを仏蘭米政府と検討・了承していた。</ref>、当時は将軍など幕閣の大半が[[長州征討|第一次長州征討]]で[[江戸]]を留守にしていたため、パークスは[[フランス|仏]]・[[オランダ|蘭]]とともに連合艦隊([[アメリカ合衆国|米国]]は代理公使のみの派遣)を[[兵庫津|兵庫]]沖に派遣し、威圧的に幕府・朝廷と交渉。その結果、[[孝明天皇]]は条約勅許と関税率の改正は認めたが、兵庫開港は不許可とした([[兵庫開港要求事件]])<ref>[[孝明天皇]]の御沙汰書は、兵庫の開港を即時には認めないという内容ではなく、[[ロンドン覚書]]で確認された[[1868年]][[1月1日]]の兵庫開港さえも認めないものであった。しかしこれは諸外国には知らされなかった。</ref>。
家族を迎えるために上海に向かう途上、[[下関市|下関]]で[[長州藩]]の[[高杉晋作]]・[[伊藤博文]]と会談した<ref>この時パークスは、長州藩が薩摩藩から密かに武器調達の協力を得ていること、その背後に長崎のイギリス商人[[トーマス・ブレーク・グラバー]]が協力していることを察知した。</ref>。