「上町台地」の版間の差分

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=== 上町台地の成り立ち ===
[[ウルム期]]の上町台地は[[河内湾]]に突き出した半島状の台地であったと想定されている。その東側は河内湾とされ、河内湾が淡水化されていく河内湖の形成過程では[[天満橋]]の台地北端からさらに北へ砂州がつながり、半島状の上町台地は完全に両端が陸域化された。大阪湾の北岸は[[千里丘陵]]のすぐ下、[[吹田市]]の豊津や高浜といった地名があるあたりにあり、そこへ上町台地からの砂州が[[大阪市]]の東三国か吹田市の[[江坂]]辺りまで伸び、淀川や大和川の流れ込む河内湾と大阪湾は[[垂水]]{{要曖昧さ回避|date=2016年2月}}(現在の[[吹田市]]垂水付近)というわずかな幅の水路でつながっていた。そのため、時代が下がるにつれて河内湾は河川水による淡水化が進み河内湖となる。[[仁徳天皇]]は河内湖と大阪湾をつなぎ、河から海への水運や、河内湖の排水をスムーズにするため、現在の天満橋のあたりで砂州を掘って河内湖と大阪湾を直結する[[難波の堀江]]という運河を作ったといわれている。
 
[[ファイル:Chausuyama01s3200.jpg|thumb|大和川開削の名残 河底池と茶臼山]]