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en:Paavo Nurmi oldid=803889043 より翻訳、ほかfi:Paavo Nurmi oldid=16899018 より抄訳。続きます
| native_name = Paavo Johannes Nurmi
| native_name_lang = fi
| fullname = パーヴォ・ヨハンネス・ヌルミ<ref name="sports-reference">{{citeCite web|title=Paavo Nurmi|url=http://www.sports-reference.com/olympics/athletes/nu/paavo-nurmi-1.html|website=sports-reference.com|publisher=Sports Reference LLC|accessdate=11 June 2015}}</ref>
| nickname = [[フライング・フィン]]
| nationality = {{FIN}}
| weight = 65 kg<ref name="sports-reference" />
| spouse = シルヴィ・ラークソネン({{lang|fi|Sylvi Laaksonen}})
| country = [[フィンランド]]
| sport = [[陸上競技]]
| medaltemplates =
'''パーヴォ・ヨハンネス・ヌルミ'''({{lang-fi|Paavo Johannes Nurmi}}、{{IPA-fi|ˈpɑːʋo ˈnurmi|-|Fi-Paavo_Nurmi.ogg}}、[[1897年]][[6月13日]] - [[1973年]][[10月2日]])は、[[フィンランド]]の[[中距離走]]と[[長距離走]]選手。20世紀初頭に長距離走をほぼ支配したことから、[[フライング・フィン]]と呼ばれた。生涯を通して[[1500メートル競走]]から20キロメートル競走まで合計22の[[陸上競技の世界記録一覧|公式世界記録]]を作り、[[夏季オリンピック]]に3回最中して合計[[金メダル]]9個、[[銀メダル]]3個を獲得した。その絶頂期には[[800メートル競走]]以上の距離で121レース無敗であり、14年間の運動選手生涯において{{仮リンク|クロスカントリー競走|en|Cross country running}}と[[10000メートル競走]]で無敗を維持した。
 
労働者の家族に生まれたヌルミは12歳に学校を中退して家計を支えた。[[1912年ストックホルムオリンピック]]における[[ハンネス・コーレマイネン]]の勝利がもたらしたオリンピック熱に感銘を受けて厳しいトレーニング計画を開始した。ヌルミは兵役の最中に頭角を現し、[[1920年アントワープオリンピック]]の訓練中に{{仮リンク|陸上競技のフィンランド記録一覧|en|List of Finnish records in athletics|label=フィンランド記録}}を作った。[[5000メートル競走]]で銀メダルを獲得した後、10000メートル競走とクロスカントリー競走で金メダルを獲得した。1923年、ヌルミは史上初、[[1マイル競走]]と[[5000メートル競走]]と10000メートル競走の世界記録を同時に保持する選手であり、2017年現在まで2人目は現れていない。[[1924年パリオリンピック]]で再び1500メートルと5000メートルの世界記録を作ったが、この2試合の間は1時間しかなく、ヌルミは2時間内に金メダルを2個獲得した。彼はパリの酷暑にまるで意に介さないように、金メダルを合計5枚獲得した<ref>{{citeCite web|title=Paavo Nurmi|url=http://www.olympic.org/paavo-nurmi|website=olympic.org|publisher=[[国際オリンピック委員会|International Olympic Committee]]|accessdate=11 June 2015}}</ref>。しかし彼はフィンランド当局に10000メートル競走への参加を拒絶され(代わりに[[ビレ・リトラ]]が参加、金メダルを獲得した)、そのことを苦々しく思っていた。
 
1925年の長いアメリカツアーの後、ヌルミは怪我とモチベーション低下に悩まされ、[[ビレ・リトラ]]や[[エドヴィン・ヴィーデ]]が強敵として立ちはだかるようになった。[[1928年アムステルダムオリンピック]]では10000メートル競走の金メダルを再び獲得したが、5000メートル競走ではリトラに、[[3000メートル障害]]では[[トイヴォ・ロウコラ]]に敗れて銀メダルとなった。彼は続いてさらに長距離な競走である[[1時間競走]]と25マイル競走に挑み、世界記録を打ち立てた。彼は憧れのコーレマイネンと同じように選手生涯の最後をマラソンの金メダルで飾ろうとしたが、[[国際陸上競技連盟]]の委員会は[[1932年ロサンゼルスオリンピック]]の直前にヌルミがアマチュアかどうかに疑問を呈し、オリンピック開幕式の2日前にヌルミの参加資格を取り消した。これにより{{仮リンク|スウェーデンとフィンランドの関係|en|Finland–Sweden relations}}が緊張、反国際陸連の風潮が巻き起こった。結局、ヌルミをプロ選手とする宣言はついぞ発されなかったが、ヌルミの資格取り消しは1934年に確定、彼はそのまま引退した。
その後、ヌルミはフィンランド走者のコーチになり、[[冬戦争]]中にはフィンランドのために募金し、{{仮リンク|ハーバーダッシャー|en|Haberdasher}}、建築の下請け、{{仮リンク|株式売買人|en|Stock trader}}として働き、やがてフィンランドの大資産家になった。[[1952年ヘルシンキオリンピック]]では{{仮リンク|最終聖火ランナーの一覧|en|List of people who have lit the Olympic Cauldron|label=最終聖火ランナー}}を務めた。ヌルミの速さと性格のつかみどころのなさにより、「ファントム・フィン」({{lang|en|Phantom Finn}})などのあだ名をつけられた。一方、彼の功績、トレーニング法と走法はそれ以降の中長距離走者にえいきょうをあたえた。常に[[ストップウオッチ]]をもって走ったヌルミは均一速度走法と分析的なトレーニング法の発明者とされ、また競走をメジャーな運動にした人とされている。
 
== 幼少期 ==
1973年10月2日、ヌルミは[[ヘルシンキ]]において76歳でその生涯を閉じた。フィンランドのマリヤッタ・バーネナン文部大臣は追悼演説で『記録は塗り替えられ、金メダルは輝きを失う日が来るでしょう。しかし、歴史的概念としてのパーヴォ・ヌルミは永遠に栄光の中であり続けるでしょう』と辞を述べた。
[[ファイル:Paavo Nurmi and his family in 1924.jpg|thumb|left|alt=キャプションを参照|ヌルミの家族、1924年撮影。]]
ヌルミは1897年、[[フィンランド大公国]]の[[トゥルク]]で大工ヨハン・フレドリク・ヌルミ({{lang|fi|Johan Fredrik Nurmi}})とその妻マティルダ・ヴィルヘルミーナ・ライネ({{lang|fi|Matilda Wilhelmiina Laine}})の間の息子として生まれた<ref name="SLU">{{Cite web | first=Raimo | last=Railo | title=Legendaarinen Paavo Nurmi – sata vuotta ja ylikin suomalaista urheilua, osa 11 | work= Suomen Liikunta ja Urheilu (SLU) |url=http://www.slu.fi/lum/11_00/uutiset/legendaarinen_paavo_nurmi-sata/ | accessdate=16 August 2012 | language=フィンランド語}}</ref>。ヌルミの兄弟姉妹であるシーリ({{lang|fi|Siiri}})、サーラ({{lang|fi|Saara}})、マルッティ({{lang|fi|Martti}})、ラハヤ({{lang|fi|Lahja}})はそれぞれ1898年、1902年、1905年、1908年に生まれた<ref name="Paavo Nurmi's home">{{Cite web | title=Paavo Nurmi's home | work=The Sports Museum of Finland |url=http://www.urheilumuseo.fi/Default.aspx?tabid=2968 | accessdate=16 August 2012}}</ref>。1903年、ヌルミ一家は{{仮リンク|ラウニストゥラ|en|Raunistula}}からトゥルクの中心にある49平方メートルのアパートに転居、1932年までそのアパートに住んだ<ref name="Paavo Nurmi's home" />。ヌルミと彼の友人たちはイギリスの長距離走者{{仮リンク|アルフレッド・シュラブ|en|Alfred Shrubb}}に感銘を受けており<ref name="SLU" />、定期的に6 km(4マイル)を走るか歩いて{{仮リンク|ルイッサロ島|en|Ruissalo}}に行ってそこで泳いだ後、帰り道も同じようにした。時にはこのトレーニングを1日2回行った<ref name="Top Distance Runners p. 15">{{Cite book | first=Seppo | last=Luhtala | year=2002 | title=Top Distance Runners of the Century | publisher=Meyer & Meyer Verlag | page=15 | isbn=978-1841260693}}</ref>。ヌルミは11歳までに1500メートルを5分2秒で走った<ref name="SLU" />。ヌルミの父ヨハンは1910年に、妹のラハヤは1911年に死去した<ref name="Paavo Nurmi's home" />。ヌルミ一家の家計が苦しくなり、台所を別の家族に貸出して自分たちは一室に住んだ<ref name="SLU" />。ヌルミは学問の才能があったが退学してパン屋の使い走りとして働いた<ref name="Paavo Nurmi's home" />。彼は走るのをやめたが<ref name="SLU" />、仕事で重い台車を押しながらトゥルクの急坂を登ったことが運動の代わりとなった{{sfn|Sears|2001|pp=212–213}}。彼は後にこの「運動」が彼の背筋とleg musclesを強めたと述べた{{sfn|Sears|2001|pp=212–213}}。
 
ヌルミが15歳になったとき、[[ハンネス・コーレマイネン]]が[[1912年ストックホルムオリンピック]]で勝利、「フィンランドを世界地図に乗り上げた」({{lang|en|run Finland onto the map of the world}})と言われた。この出来事にヌルミは陸上競技への興味を再燃した<ref name="Urheilumuseo">{{Cite web | title=Paavo Nurmi – A biography | work=The Sports Museum of Finland |url=http://www.urheilumuseo.org/paavonurmi/life.htm | accessdate=1 August 2012}}</ref>。彼は数日後にはじめて[[スニーカー]]を購入した<ref name="Top Distance Runners p. 15" />。トレーニングとしては夏に{{仮リンク|クロスカントリー競走|en|Cross country running}}を、冬に[[クロスカントリースキー]]を行った<ref name="SLU" />。1914年、ヌルミはスポーツクラブの{{仮リンク|トゥルン・ウルヘイルリーット|en|Turun Urheiluliitto}}に加入、はじめての[[3000メートル競走]]で勝利した<ref name="Finnish Literature Society">{{Cite web | first=Veli-Matti | last=Autio | title=Nurmi, Paavo (1897–1973) | work={{仮リンク|フィンランド文学協会|en|Finnish Literature Society|label=Finnish Literature Society}} |url=http://www.kansallisbiografia.fi/kb/artikkeli/1786/ | date=12 September 1997 | accessdate=16 August 2012 | language=フィンランド語}}</ref>。その2年後、彼はトレーニング内容を変更して歩行、[[短距離走]]、[[美容体操]]を追加した<ref name="SLU" />。彼は転職してトゥルクの{{lang|en|Ab. H. Ahlberg & Co}}という工房で働き、引き続き家計を支えた。その後、1919年4月に{{仮リンク|ポリ旅団|en|Pori Brigade}}のマシンガン中隊で兵役を始めると職を辞した<ref name="SLU" />。1918年の[[フィンランド内戦]]では政治的には消極的のままで、仕事とオリンピックへの野心に集中した<ref name="SLU" />。内戦が終結した後も{{仮リンク|フィンランド労働者スポーツ協会|en|Finnish Workers' Sports Federation}}には加入しなかった、協会に寄稿して同僚や運動員に対する差別を批判した<ref name="SLU" />。
 
[[ファイル:Paavo Nurmi at the 1920 Olympic trials.jpg|thumb|alt=キャプションを参照|ヌルミ、[[1920年アントワープオリンピック]]の予選にて。]]
ヌルミは兵役中の陸上競技試合で頭角を現した。ほかの人々が行進するなか、ヌルミはライフルを肩に、さらに砂を積んだバックパックを背負って全距離を走った<ref name="Finnish Literature Society" />。ヌルミの頑固な性格により下士官とはうまくいかなかったが、上級の士官に好まれた<ref name="Finnish Literature Society" />(兵士の宣誓を断ったにもかかわらず<ref name="SLU" />)。指揮官の[[フーゴ・オステルマン]]はスポーツの大ファンだったため、ヌルミほか数人は練習のための自由時間を与えられた<ref name="SLU" />。ヌルミは兵舎で新しいトレーニング法を編み出した。すなわち、列車の後ろを走り、列車の後方にある緩衝器の位置を維持してまたぎの長さを引き延ばした。さらに足を強化するために甲鉄のある重い軍靴を使った<ref name="SLU" />。ヌルミは個人記録を更新するようになり、オリンピック選抜に必要な成績に近くなった<ref name="Finnish Literature Society" />。1920年3月、伍長({{仮リンク|アリケルサンッティ|en|Alikersantti}})に昇進した<ref name="SLU" />。1920年5月29日には自身初となるフィンランド記録を3000メートル競走で作り、7月には1500メートルと5000メートル競走のオリンピック予選を勝ち抜いた<ref name="Urheilumuseo" />{{sfn|Raevuori|1997|p=432}}。
 
この時期のヌルミの記録は下記である<ref>Kaila (1926), pp. 18-24.</ref>。
{| class="wikitable"
|-
! 年 !! 1500 m !! 2000 m !! 3000 m !! 5000 m !! 10000 m
|-
| 1914 || || || 10:06.5 || ||
|-
| 1915 || || 6:06.8 || 9:30 || 15:50.7 ||
|-
| 1916 || || 5:55 || || 15:52.8 ||
|-
| 1917 || || || || 15:47.5 ||
|-
| 1918 || 4:29 || || || 15:50.7 ||
|-
| 1919 || || || 8:58.1 || 15:31.5 || 32:56
|}
 
== オリンピック ==
=== 1920年と1924年のオリンピック ===
[[ファイル:Paavo Nurmi (Paris 1924).jpg|thumb|left|alt=キャプションを参照|ヌルミ、[[1924年パリオリンピック]]にて。]]
ヌルミの国際でのデビューは1920年8月に[[ベルギー]]で行われた[[1920年アントワープオリンピック]]である<ref name="Finnish Literature Society" />。彼は5000メートル競走でフランスの[[ジョゼフ・ギルモ]]選手に負けて初のオリンピックメダルとなる銀メダルを獲得した。ヌルミがオリンピックでフィンランド以外の選手に負けたのはこれ1回きりとなった<ref name="Urheilumuseo" />。彼は残りの3競技で全て金メダルを得た。10000メートル競走では最後のコーナーでギルモを抜き去り、個人記録を1分以上更新した<ref name="Urheilumuseo 1920">{{Cite web | title=Paavo Nurmi at the Olympic Games – Antwerp 1920 | work=The Sports Museum of Finland |url=http://www.urheilumuseo.fi/Paavonurmi/olympics.htm | accessdate=1 August 2012}}</ref>。クロスカントリー個人ではスウェーデンの[[エリック・ベックマン]]を破り、クロスカントリー団体では[[ヘイッキ・リーマタイネン]]と[[テオドル・コスケンニエミ]]とともにイギリスとスウェーデンに勝利した。ヌルミが勝利したことで家族は少し裕福になり、電灯と水道水を使えるようになった<ref name="Paavo Nurmi's home" />。ヌルミ自身は奨学金を与えられ、[[ヘルシンキ]]のテオッリスースコウル工業学校に進学した<ref name="Finnish Literature Society" />。
 
ギルモに敗北したヌルミは様々な試合を実験として行い、細かく分析した{{sfn|Lovesey|1968|p=98}}。ヌルミはそれまで最初の数周における猛烈な先行で知られたが、彼は[[ストップウオッチ]]を持って走るようになり、全距離を通じて等速で走るよう努力した{{sfn|Lovesey|1968|p=99}}。彼は走りのテクニックを完璧なまでに高め、それは相手の成績が彼の順位に影響しなくなるほどだった{{sfn|Lovesey|1968|p=98}}。ヌルミは1921年に[[ストックホルム]]で自身初となる世界記録を10000メートル競走で作った<ref name="Records">{{Cite web | title=Paavo Nurmi's world records (approved by the IAAF) | work=The Sports Museum of Finland |url=http://www.urheilumuseo.fi/paavonurmi/stats.htm | accessdate=1 August 2012}}</ref>。1922年には2000メートル、3000メートル、5000メートル競走の世界記録を塗り替えた{{sfn|Lovesey|1968|p=99}}。さらに1923年に1500メートル競走と1マイル競走の世界記録を更新した{{sfn|Lovesey|1968|p=99}}。1マイル、5000メートル、10000メートル競走の世界記録を同時に保有したのは2017年時点でヌルミただ1人であった<ref name="Urheilumuseo" />。ヌルミは800メートル走にも挑戦、1923年のフィンランド選手権をフィンランド記録を更新しつつ勝利した<ref name="Elite Games">{{Cite web | first=Matti | last=Pesola | title=SUL 100 vuotta – Paavo Nurmi | work=Elite Games |url=http://www.eliittikisat.fi/uutiset/jarjestotoiminta/sul-100-vuotta-paavo-nurmi | accessdate=22 August 2012 | language=フィンランド語}}</ref>。ヌルミは数学を学んで成功した後{{sfn|Lovesey|1968|p=97}}、1923年にエンジニアとして卒業、うちに戻って次のオリンピックを準備した<ref name="Paavo Nurmi's home" /><ref name="Finnish Literature Society" />。
 
ヌルミが1924年春にひざを怪我したことで[[1924年パリオリンピック]]の参加が一時危うくなったが、彼は回復して1日2回のトレーニングを再開した<ref name="Elite Games" />。6月19日、ヌルミはオリンピックのスケジュールを試そうとしてヘルシンキの{{仮リンク|エラインタルハ競技場|en|Eläintarha Stadium}}で1500メートルと5000メートルを1時間内に走り、両方とも世界記録を更新した<ref name="Urheilumuseo 1924">{{Cite web | title=Paavo Nurmi at the Olympic Games – Paris 1924 | work=The Sports Museum of Finland |url=http://www.urheilumuseo.fi/Paavonurmi/olympics2.htm | accessdate=1 August 2012}}</ref>。[[パリ]]のオリンピックで行われた1500メートル競走の決勝戦では最初の800メートルを世界記録更新の時よりも3秒ほど早く走った<ref name="Urheilumuseo 1924" />。ヌルミに挑戦できたのはアメリカの{{仮リンク|レイ・ワトソン (陸上競技選手)|en|Ray Watson (athlete)|label=レイ・ワトソン}}だけだったが、最後の一周で諦めたため、ヌルミは速度を少し落としつつ[[ヴィリー・シェーラー]]、{{仮リンク|ハイラ・ブリストー・ストーラード|en|H. B. Stallard}}、[[ダグラス・ロウ]]に勝利<ref name="Urheilumuseo 1924" /> 、それでもオリンピック記録を3秒下回って更新した<ref name="Running Times">{{Cite journal | magazine=Running Times | first=Roger | last=Robinson | issue=Apr 2008 | title=The Greatest Races | page=48}}</ref>。しかし、5000メートル競走は1500メートル競走から2時間未満で開始、すでに[[3000メートル障害]]と10000メートル競走で金メダルを獲得した、同じくフィンランド出身の[[ビレ・リトラ]]が強敵として立ちはだかった<ref name="Urheilumuseo 1924" />。リトラと[[エドヴィン・ヴィーデ]]はヌルミがきっと疲れていると考え、世界記録のペースで走って彼にエネルギーを使い果せようとした{{sfn|Sears|2001|p=214}}{{sfn|Raevuori|1997|p=174}}。時計ではなく2人の男と競争していたことがわかると、ヌルミはストップウオッチを傍らの草に放り投げた{{sfn|Sears|2001|p=214}}。やがてヴィーデのペースが遅くなり、ヌルミとリトラのみが競争を継続した<ref name="Urheilumuseo 1924" />。最後の直線ではリトラが外側から走ったが、ヌルミもペースを上げてリトラを1メートル後ろに維持して勝利した<ref name="Urheilumuseo 1924" />。
 
一方、クロスカントリー競走では45度という酷暑だったため<ref>{{Cite web | title=Paavo Nurmi : makes the impossible possible | work=[[国際オリンピック委員会|International Olympic Committee]] |url=http://www.olympic.org/content/news/media-resources/manual-news/1999-2009/2007/06/13/paavo-nurmi--makes-the-impossible-possible/ | date=13 June 2007 | accessdate=2 May 2015}}</ref>競走者38人のうち15人がリタイヤ<ref name="Urheilumuseo 1924" />、完走した走者でも8人が[[ストレッチャー]]で運ばれた<ref name="Urheilumuseo 1924" />。走者の1人が終点のある競技場に着くと小さな円をぐるぐると走り、やがて観覧席に当たって人事不省に陥った<ref name="The Guardian">{{Cite web |url=https://www.theguardian.com/sport/blog/2012/may/18/50-stunning-olympic-moments-paavo-nurmi |title=50 stunning Olympic moments No31: Paavo Nurmi wins 5,000m in 1924 |date=18 May 2012 |publisher=[[ガーディアン|The Guardian]] |first=Simon |last=Burnton |accessdate=2017年11月21日}}</ref>。ヴィーデは最初にはリードしたが失神してしまい、病院で死去したとの誤報があったほどだった{{sfn|Raevuori|1997|pp=177–178}}{{sfn|Lovesey|1968|p=111}}。ヌルミはリトラをほぼ1分半リードして勝利した後も少し疲れたように見えただけだった<ref name="Urheilumuseo 1924" />。フィンランドがクロスカントリー団体のメダルを失ったように見えた中<ref group="注">当時のルールでは、個人戦の順位がそのまま団体戦で算入される順位になるが、団体戦では完走者が3人いなければ失格となる。フィンランド選手6人のうちヌルミとリトラは1位と2位で完走したが、残り4人のうち3人がリタイヤしており、最後の1人[[ヘイッキ・リーマタイネン]]も消耗しておりリタイヤ必至かと思われた。ヌルミとリトラの好成績のおかげで、リーマタイネンが完走できれば団体戦で金メダルを獲得することとなるが、(残りの3人がリタイヤしたため)完走できない場合は失格となる。</ref>、[[ヘイッキ・リーマタイネン]]が混乱しつつ千鳥足で競技場に入った。しかし、千鳥足であったためほとんど進めていなかった{{sfn|Raevuori|1997|p=179}}。リーマタイネンの前を走っていた選手が終点まで後50メートルのところで失神したため、リーマタイネンは終点に着いたと勘違いして走りを止め、競走路の外に出ようとした<ref group="注">当然ながら、競走路の外に出ると失格である。</ref>。観客たちは叫んだが彼に無視された。観客たちがはらはらする中、彼はようやく自分の置かれた状況が分かり、方向転換して12位でゴール、団体戦の金メダルを確保した<ref name="Urheilumuseo 1924" />{{sfn|Raevuori|1997|p=179}}。競技場にいた人々はこの光景に衝撃を受け、オリンピック当局はそれ以降のオリンピックでクロスカントリー競走を禁止した{{sfn|Lovesey|1968|p=112}}。
 
翌日の3000メートル団体ではヌルミとリトラが再び1位と2位となり、[[エリアス・カッツ]]が5位でゴールしたおかげで団体戦の金メダルを獲得した<ref name="Urheilumuseo 1924" />。ヌルミは5種目で金メダルを5個獲得したが、フィンランド当局がスター走者の間で種目を分配、最愛の10000メートル競走を走れなかったためそのことを苦々しく思っていた<ref name="Urheilumuseo 1924" /><ref name="CNN" />。そして、フィンランドに戻ると、ヌルミは10000メートル世界記録を更新、以降ほぼ13年間破られなかった<ref name="CNN">{{Cite web | title=Paavo Nurmi | work=[[CNN]] |url=http://edition.cnn.com/2008/SPORT/05/01/paavonurmi/index.html | date=7 July 2008 | accessdate=1 August 2012}}</ref>。彼は今や1500メートル、1マイル、3000メートル、5000メートル、10000メートルの世界記録を同時に保持した{{sfn|Raevuori|1997|p=417}}。
 
== 死去 ==
1973年10月2日、ヌルミは[[ヘルシンキ]]において76歳でその生涯を閉じた。フィンランドのマリヤッタ・バーネナン文部大臣は追悼演説で『記録は塗り替えられ、金メダルは輝きを失う日が来るでしょう。しかし、歴史的概念としてのパーヴォ・ヌルミは永遠に栄光の中であり続けるでしょう』と辞を述べた。
 
ヌルミの肖像はユーロ導入までのフィンランド10マルッカ紙幣に描かれており、現在もフィンランドの金字塔として残されている。
 
== 脚注 ==
{{reflistReflist|30emgroup=注}}
 
== 出典 ==
{{Reflist|30em}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book | lastauthor=LoveseyKaila, |Toivo first=PeterT. | year=1968(toim.) | title=ThePaavo KingsNurmi. ofElämä, Distance:tulokset Aja Studyharjoitusmenetelmät of| Five Great Runnerslocation=Porvoo | publisher=Taylor & FrancisWSOY | isbnyear=978-35400023831926 | reflanguage=harvfi }}
* {{Cite book | last=Lovesey | first=Peter | year=1968 | title=The Kings of Distance: A Study of Five Great Runners | language=en | publisher=Taylor & Francis | isbn=978-3540002383 | ref=harv}}
* {{Cite book | last=Raevuori | first=Antero | year=1997 | title=Paavo Nurmi, juoksijoiden kuningas | publisher=WSOY | edition=2nd | language=fi | isbn=978-9510218501 | ref=harv}}
* {{Cite book | last=Sears | first=Edward Seldon | year=2001 | title=Running Through the Ages | publisher=McFarland | language=en | isbn=978-0786409716 | ref=harv}}
* 『記録をうちたてた人々 (さ・え・ら伝記ライブラリー 6)』([[鈴木良徳]]著、[[さ・え・ら書房]]、1965/10、[[ピエール・ド・クーベルタン]]、[[ジム・ソープ]]、パーヴォ・ヌルミ、[[織田幹雄]]、[[人見絹枝]]、[[ジェシー・オーエンス]]、[[フランシナ・ブランカース=クン]]、[[エミール・ザトペック]]を紹介、{{ISBN2|978-4378018065}})