「弘田澄男」の版間の差分

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{{by|1971年}}の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]3位で[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]に入団。163cmと当時一番小さな選手であったが、2年目の{{by|1973年}}7月11日の[[北海道日本ハムファイターズ|日拓ホーム]]戦では[[サイクル安打]]を達成するなど、[[中堅手]]のレギュラーに定着。[[1974年の日本シリーズ]]では25打数10安打7打点を記録、最終第6戦では延長10回表に[[星野仙一]]から日本一を決める決勝適時二塁打を放ち、シリーズMVPを獲得した。その後も長くオリオンズのリードオフマンとして活躍し、3度の半期優勝に貢献。闘志あふれるプレーと俊足、好守が持ち味で、ダイヤモンドグラブ賞(現・[[ゴールデングラブ賞]])を通算5回受賞した。また、入団から11年連続して2桁盗塁を記録し、{{by|1980年}}には自己最高の41盗塁を記録している。
 
{{by|1984年}}に[[藤倉一雅]]との交換トレードで[[阪神タイガース]]に移籍し、主に二番打者として打率.313(セ・リーグ打撃ランキング第9位)を記録。{{by|1985年}}のシーズン後半は[[北村照文]]、[[吉竹春樹]]に定位置を譲るが、21年ぶりのリーグ優勝と2リーグ制になってから初めての日本一に貢献した。同年の[[1985年の日本シリーズ|日本シリーズ]]から[[指名打者]]が採用され、同年に限り全試合指名打者制行われた。監督の[[吉田義男]]はセ・リーグ球団初の[[指名打者]]に弘田務め起用、全6試合「二番、指名打者」として先発出場。成績は22打数3安打と指名率.136して数字の上で良い結果は残せなかったものの。ただ、3安打すべては後続の打者の得点にチャンスをつなる結果を残していており、特に第1戦の8回表には[[真弓明信]]の2ベースヒットを足掛かりに弘田が送りバントからヒットと作戦を変える[[バスター]]で出塁して三番打者の[[ランディ・バース]]の3ランホームランを演出した。{{by|1988年}}に一軍外野守備走塁コーチ兼任となったが、選手としての[[支配下登録]]は事実上形式的なもので試合出場はなく、背番号も専任コーチ並みの73に変更していた。同年限りで正式に引退。
 
=== 引退後 ===