「ルイス・B・メイヤー」の版間の差分

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タルバーグの死や大恐慌という危機を無事乗り切ったメイヤーは、[[ハリウッド]]最大の映画スタジオの首脳として不動の地位を築き上げる。しかし[[第二次世界大戦]]が終結すると、その勢威にも翳りが見られるようになる。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーが得意とする感傷的な家族ドラマや仰々しいロマンス映画に、観客が以前のような関心を払わなくなったからである<ref name="Schulberg" />。また、この頃[[テレビ]]という新しい娯楽が徐々に一般家庭に浸透しつつあったのも、映画産業にとって向かい風となった<ref name="Backstreet">Jack Backstreet、“[http://www.imdb.com/name/nm0562454/bio IMDb Mini Biography]”、The Internet Movie Database。(参照:2009年9月18日)</ref>。
 
メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの黄金時代に決定的な終止符を打ったのは、[[1948年]]に下された「パラマウント訴訟」の最高裁判決だった。同一の企業が映画の製作と興行を担当することを規制するこの判決によって、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーや[[パラマウント映画]]のような大手映画スタジオは、莫大な利潤を生み出してきた系列の映画館への独占的支配を一挙に失うことになる<ref name="Hasumi">[[蓮實重彦]]著『ハリウッド映画史談義 翳りの歴史のために』、筑摩書房、1993年9月20日、167頁</ref>。同時にこれまでスタジオに押さえ込まれてきたスター俳優や監督たちも、公然と待遇への不満を口にするようになった。このような逆境の中、メイヤーとメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの上層部は、往年の勢いを取り戻すために人事面の刷新を図る。嘗てアーヴィング・タルバーグが就いたポストに脚本家[[ドア・シャーリー]]を迎えたメイヤーだが、やがてシャーリーと映画の製作方針を巡って対立。そして[[1951年]]に、メイヤーの旧態依然とした大作主義と独裁に嫌気が差していたLoew’s Inc.(メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの親会社)の経営責任者ニコラス・スケンク<ref group="注" >ハリウッドでは絶大な権力を誇ったメイヤーも、ニューヨークの本社で経営責任者として君臨するスケンクの存在を病的に恐れていたとされる(Parish p. 165)。</ref>によって、メイヤーは27年間保持した最高権力者の地位から更迭されてしまう<ref name="Schulberg" />。
 
=== 晩年のメイヤー ===