「扶桑 (戦艦)」の版間の差分

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10月22日朝、栗田艦隊(第一遊撃部隊 第一部隊・第二部隊)は[[ブルネイ]]泊地を出撃、西村艦隊(第三部隊)は午後3時に同泊地から出撃した<ref name="戦艦十二隻329">[[#戦艦十二隻(2014)]]329頁『西村艦隊の大黒柱として』</ref>。対空機銃を増設した関係で、扶桑には定員より多い約1300名が乗艦していたとされる<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]239頁</ref>。劣速で<ref>実速21kt、艦隊全速20kt</ref>航続力の少ない第三部隊は当初より第一遊撃部隊(指揮官[[栗田健男]]第二艦隊司令長官)とは分離し、敵哨戒機により発見される可能性が高い代わりにレイテ湾への最短航路を経由する事が決定されていた為<ref>「戦史叢書 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦」p71</ref>、同24日、第一遊撃隊とは別コースの[[スリガオ海峡]]を通り抜けて[[レイテ湾]]を目指した。[[栗田艦隊]](とくに戦艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]])がアメリカ軍機動部隊の攻撃を一身に受けていたために、西村艦隊は[[ミンダナオ海]]で急降下爆撃機約20(空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]、[[フランクリン (空母)|フランクリン]]所属機)による空襲を受けたのみであった<ref name="戦艦十二隻329" />。扶桑ではカタパルト附近に爆弾1発が命中、航空用ガソリンに引火して約1時間燃え続けた<ref name="戦艦十二隻329" />。最上は『扶桑後部ニ爆弾一命中観測機一機炎上 後部ニ破口ヲ生ジタル外大ナル被害ナシ』と報告し<ref>[[#決断と異議]]p.160、[[#最上詳報]]p.7</ref>、西村司令官は栗田長官にあてた電報で「戦闘力発揮支障ナシ」と報告した<ref>「戦史叢書 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦」p249</ref>。
 
『雑誌丸エキストラ 5月号別冊』によれば、至近弾で後部甲板に装着していた爆雷が爆発し、搭載していた九四式水偵2機に引火。水偵に搭載していた小型爆弾が爆発した事で後部甲板は火の海となり、舵取機室以外の司令官室とその周辺の用具庫などを吹き飛ばされただけでなく、前艦橋右舷の第一カッター・ダービット近くの甲板にも命中弾を受ける事となった。また、空襲の際に投下された250kg爆弾は副砲の一番砲廊を貫き、中毒者収容室と被服庫の辺りを貫通し、前部水圧機室で爆発した。この爆発によって水圧機室は大破し付近の防水隔壁が押し上げられた事で、扶桑中甲板と上甲板の床を突き上げられるという損害を受けただけなく、副砲一番砲員、弾火薬庫員がほぼ全滅し、医務室士官、前部応急員十数名が即死し被服事務室、厨房事務室が破壊された。更に、前部水圧機室が破壊された事で扶桑の第一、第二砲塔の操作に支障が起き、被弾のショック衝撃で浸水が発生し右舷に2度傾斜した。応急処置がほどこされたものの、傾斜は復元されず、そのままの状態で進む事となった<ref>『雑誌丸エキストラ 5月号別冊「戦史と旅」34』p124</ref>。<!--以下、上記の参照文献「戦死と旅」と差異あり。実際には扶桑の他に山城も至近弾により生じた艦底亀裂とバルジの損傷によって艦が5傾斜し、装備された22号電探、13号電探も破壊されるという被害を受けており、辛うじて戦闘航行は可能であったもののその戦力は既に半減した状態にあり、扶桑に至っては艦前部の予備浮力が大きく失われ第一、第二砲塔は殆ど使い物にならなくなるという甚大な被害を受けていた<ref>「連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記」p239、「完本・太平洋戦争(下)」p87、「軍艦山城一般艤装図」、『丸 エキストラ5月別冊「戦史と旅」34』p122〜124</ref>。 -->
 
同日夜、アメリカ海軍の[[魚雷艇]]部隊がスリガオ海峡の入り口に待ち構えていたため、西村艦隊は重巡洋艦[[最上 (重巡洋艦)|最上]]と駆逐艦3隻([[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]])を先行させ<ref>[[#時雨詳報]]p.8『一八三〇|最上4dg(d×3)ヲ分離「リゴツト」湾方向ニ偵察掃蕩セシム』</ref>、直率3隻(山城、扶桑、時雨)の探照灯で魚雷艇を攻撃つつ航行した<ref>[[#サイパン・レイテ海戦記]]197頁</ref><ref>[[#時雨詳報]]p.8『二二五〇(二三〇九)|2S時雨敵魚雷艇ト交戦撃退シツツ進撃 以後概ネ終始魚雷艇ニ觸接セラル(戦果時雨一隻撃沈)』</ref><ref name="戦艦十二隻330">[[#戦艦十二隻(2014)]]330-331頁『敵ながら天晴れのT字戦法』</ref>。<!--この部分の出典が添付されるまでコメントアウト。「この魚雷艇部隊の巧みな一撃離脱戦法により、海峡突入が大幅に遅れ、西村中将も敵が待ち受けていることに慎重にならざるを得なくなる。風説では西村艦隊は何も考えずに突撃し、玉砕したと取られがちだが、実際にはこういった敵の攻撃の予測と対処に常に追われ、慎重に対応しようとしていたのである。しかし、西村艦隊は第一部隊の戦況を無視し、あくまで当初の予定通りにレイテ湾へ突入する事に拘り後続の志摩艦隊と合同する事も無く25日0100にレイテ湾に突入と一方的に発信した後、事前に発進した最上の水偵より敵部隊の戦力を把握していたにも関わらず無策に突入して行き第一部隊が0700に西村艦隊に対して速やかに合同せよと下令した頃には既に時雨、最上を残し全滅しているという有様であった。また、西村艦隊の旗艦であった山城の主計長が機動部隊司令官宛に われレイテ湾に向け突撃、玉砕す。と西村中将が報告を送るようにと指示を出しているのを聞いており、最初から玉砕するつもりであった事が窺える。第二戦隊が再編された際にも作戦打ち合わせを殆ど行わなかった事も、当初から玉砕するつもりであったため不要と考えていたためであるとされる。こういった魚雷艇の攻撃に足並みを乱されたものの、西村中将は艦隊が突撃する事で敵の攻撃の目をこちらに一気に引きつけ、後続の栗田艦隊と志摩艦隊に後を任せるといった決意をしたとも言われているが、定かではない。」-->