「四神相応」の版間の差分

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平安京四神相応説について新説を追加
平安京の四神相応についての参考文献を追加。平安京の四神にかかわる古文献を紹介。
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しかし『作庭記』は庭園作りの作法の解説という性格上、平安京についての言及はなく、ましてや平安京のどこが山川道澤のどれと対応しているかといった具体的地名などはまったく記されていない。『作庭記』はその内容から平安時代末期の作とされており、「四神=山川道澤」説は『作庭記』が記された平安時代末期までしか遡り得ないのが現状である。今後は、『作庭記』が参考にしたに違いない中国の文献を探し出し、それが我が国に齎された時期を明らかにすることが必要であろう。その上で、造宅や造園の四神が都の選地の四神になぜ援用されたのかそのプロセスと時期を明らかにする必要もある。
 
現在の[[日本]]で四神を「山川道澤」に対応させる解釈が一般的となったのは、平安京<ref>平安京四神相応説は鎌倉時代成立の[[平家物語]]が初出。そこには「此の地の体を見候うに、左青龍・右白虎・前朱雀・後玄武、四神相応の地なり。尤も帝都を定むるに足れり」とのみある。り、ここに四神の具体的説明はない。また平安京の四神を山川道澤に結びつける説の初出は正和3年(1314)の奥書を持つ「聖徳太子平氏伝雑勘文」。この書は延喜17年(917)成立の「聖徳太子伝歴(聖徳太子平氏伝)」の解説書でそこに山城国葛野の地形を「南開北塞、陽南陰北、河徑其前、東流成順」とあるのを解説して「左青竜は東より水南に流るなり。前朱雀は南に池溝あるなり。右白虎は西に大道あるなり。後ろ玄武は山岳あるなり。之をいう、四神具足の地と」と記す。</ref>をモデルとして、青龍=鴨川、白虎=[[山陰道]]、朱雀=[[巨椋池]]、玄武=[[船岡山]]の対応付けが比較的うまく行ったと考えられるようになってからである<ref>四神を鴨川等具体的地名に宛てる説の初出不明。江戸時代の地誌「山城名所寺社物語」(享保元年)で「左青竜見当たらず、また京都地誌加茂川なり。今総集編千本通り是右白虎なり」も言うべき大正4年刊行二神「京都坊目誌」にも見えないから、あみ明示すいは昭和以後新説とが最考えられ古い。四神すべてを地名に比定すのは現在のところ昭和24年(1949)発行の日本古典全書「平家物語」(朝日新聞)の頭注(冨倉徳次郎)に「宇多村の地勢の、東賀茂川、西大通、南鳥羽の田地、北比叡山のあるところから、四神相応の地と言った」とあるのが最も古く<!--古いものを見つけたら書き換えて行って下さい。-->、現在の通説「山=船岡山・川=鴨川・道=山陰道・澤=巨椋池」は、1974年の矢野貫一『京都歴史案内』(講談社)に初めて現れる。</ref>
平安京に限って言えば、選地の際に僧を伴っているから風水も選地理由のひとつであった可能性はあり、「四神相応の地」というのも史書には現れないものの平城遷都の詔に「四禽図に叶い」とあるところから、失われた平安遷都の詔にもそう書いてあった可能性はある。だが、その四神が「山川道澤」だったとするのは根拠薄弱だし、ましてやその山川道澤をそれぞれ具体的地形に当て嵌めていたとは到底言えない。ここには「宅地風水」と「都市風水」は別物だという基本的な理解が欠けている。都には諸国から大道が通ずるべきなのに「西大道」一本でいいとする山川道澤説が都市の風水として不適当なのは明らかであろう。京都が四神相応の地であったというのはさておき、船岡山・鴨川・巨椋池・山陰道などを挙げて平安遷都を論じることには全く根拠がないとすべきである。以上のように、仮に平安遷都の際に四神相応が唱えられたとしても、その内に山川道澤がイメージされていたか不明である限り、学者たちがその比定に躍起になること自体、不毛の論議と言える。
 
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このように朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と珍誉との間で論争があったということは、朝廷の[[陰陽寮]]では山川道澤の四神相応は採用されていなかったことを意味している。山川道澤の四神相応が[[8世紀]]後葉に建設された平安京選地の思想的背景であるとの前提に立った主張については今のところ裏付けがないことに留意が必要である。
 
そして江戸時代以前の都市デザインが四神相応となるように設計されていても、その四神が山川道澤であるとは考えにくい。例えば平城京はその建都にあたっての詔勅に「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。(方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しずめ)を作(な)し、亀筮並に従ふ。)」とある。この「四禽図に叶ひ」とは四神相応のことであり、奈良時代には平城京が四神相応の地であると考えられていたことを確認できる。平城京の立地は、平安京で説かれるような山川道澤にはあてはまらない。しかしそれを四神相応とする以上、奈良時代には別の解釈がとられていたことになる。「四禽図に叶ひ」あるいは「四神相応の地」というのに具体性はなく単なる美辞麗句かもしれず、また「三山鎮を作し」とあるところを見ると平城京の東西と北にある丘陵地を指すと考えられ、四神の内少なくとも三神は丘陵地のことであったとも解せられる。また、[[鎌倉時代]]後期の詞林采葉抄では「その中山を玄武に当て、貴人金爐を朱雀に当て、…」とあり、朱雀に「貴人金爐」が対応付けられていることがわかる。平安京について、江戸時代の「都名所図会」『四神相応の地』の項に「四神といふは、東を蒼龍、西を白虎、南を朱雀、北を玄武となづけて、四方にかくの如きの鬼神の象ありと思ふは非なり。本(もと)天の二十八宿を四ツ割りにして、七星づつを四方に配して、其星の象より起る名なり。‥‥。〔割註〕東涯制度通取意。」とあり、山川道澤説には全く触れない。このことは「平安京四神=山川道澤」説の成立が案外新しいのではないかとの疑念を持たせる
 
さらに『[[柳営秘鑑]]』によれば、「風此江戸城、天下の城の格に叶ひ、其土地は四神相応に相叶ゑり」と記されており、『柳営秘鑑』の著者である菊池弥門にとって、[[江戸城]]は四神相応の地に建設された城郭であるが、「四神=山川道澤」説を採用するとすれば、どう贔屓目にみても朱雀となりそうな[[東京湾]]は東から南東を経て南への広りがあるわけだし、白虎となりそうな[[甲州街道]]も単に西に延びているだけである<ref>珍誉のいう山川道澤の四神相応では、西の大道は南行している必要がある。</ref>。このような地形をもって、「四神=山川道澤」説に合致しているとするのは、牽強付会というべきだろう。さらに言えば、[[姫路城]]や[[福山城 (備後国)|福山城]]<ref>西国街道は東から西に伸びているわけで、これを白虎として[[瀬戸内海]]を朱雀とするなら西国街道沿いには四神相応でない場所の方が少ないであろう。</ref>、[[熊本城]]などを「山川道澤」の四神相応とするもの同様に後世に創られた解釈である。
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==参考文献==
* 『日本史年表・地図』[[吉川弘文館]]、[[2007年]]
* 井上満郎『平安京と風水―宮都設定原理と風水思想の関係』 「日本社会の史的構造 古代中世」所収 思文閣出版、1997年
* 寺本健三『「営造宅経」和訳(その1)』 史迹美術同攷会「史迹と美術」第804号所収
* 寺本健三『敦煌文書「司馬頭陀地脈訣」和訳』 史迹美術同攷会「史迹と美術」第832,833号所収
* 加藤繁生『「京都検定」を検定する 「四神相応の都」』 史迹美術同攷会「史迹と美術」第867号所収
 
==脚注==