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'''サー・リチャード・スタッフォード・クリップス'''(Sir Richard Stafford Cripps、[[1889年]][[4月24日]] - [[1952年]][[4月21日]])は、20世紀前半の[[労働党 (イギリス)|イギリス労働党]]の政治家。[[王立協会フェロー]]<ref name="frs">{{Cite journal | last1 = Schuster | first1 = George | doi = 10.1098/rsbm.1955.0003 | title = Richard Stafford Cripps 1889?1952 | journal = [[Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society]] | volume = 1 | pages = 11?26 | year = 1955 | jstor = 769240| pmid = | pmc = }}</ref>、イギリス名誉勲位([[:en:Order of the Companions of Honour|Order of the Companions of Honour]])受章者。
==略歴==
 
[[法廷弁護士]]としての豊富な経歴を背景に、1931年のブリストル東地区補欠選挙に当選して国会議員となり、[[1931年イギリス総選挙|同年秋の総選挙]]でも第一線で議席を保った数少ない労働党議員であった。クリップスは左翼陣営を率いる論客となり、1939年まで{{仮リンク|イギリス人民戦線|en|Popular Front (UK)}}と協力関係を持ったため、その年に労働党より除名された。[[第二次世界大戦]]中は駐[[ソビエト連邦|ソ連]]大使を務める(1940年 - 1942年)。クリップスはソ連に対して用心深くなったが、ソ連が参戦したことで広く人気を得て、1942年には首相の[[ウィンストン・チャーチル]]に対する潜在的ライバルとも見なされた。[[第1次チャーチル内閣]]の戦時連立内閣に入閣したが、[[イギリス領インド帝国|インド]]での戦時危機に対する{{仮リンク|クリップス使節団|en|Cripps Mission}}が、チャーチルにとっては急進的に過ぎ、[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]らインドの指導者には保守的に過ぎたため、解決に失敗した。その後、クリップスは、重要なポストだが戦時内閣では中枢からはずれた[[航空機生産大臣]]の地位を与えられた<ref name="Mitchell, Andrew 2002 p. 176">Mitchell, Andrew (2002) "Cripps, (Richard) Stafford" in [[John Ramsden (historian)|John Ramsden]], ed., ''The Oxford Companion to Twentieth-century British Politics''. {{ISBN|0198601344}}. p. 176</ref>。