「5月3日憲法」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m ウィキ文法修正: 間違った画像オプション サイズの単位をpxに修正する:"200" lintId=1870942
Sinhako (会話 | 投稿記録)
1行目:
[[image:Konstytucja 3 Maja.jpg|right|thumb|350px|『5月3日憲法』([[ヤン・マテイコ]]画、1891年)。国王[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ|スタニスワフ2世]](左側の立派なマントの男性)が、新憲法を公布する聖ヨハネ大聖堂に入る。この直前に新憲法が奥の王宮で採択された。]]
'''5月3日憲法'''(ごがつみっかけんぽう、{{lang-pl-short|Konstytucja Trzeciego Maja}})は、[[ポーランド・リトアニア共和国]](以下「ポーランド」)の憲法である。[[1791年]][[5月3日]]に議会([[セイム]])で採択されたことからこの名がある。
==概要==
 
近代的な[[法典化|成文]]国民[[憲法]]として[[ヨーロッパ]]で最初のものであり、世界でも[[アメリカ合衆国憲法|米国憲法]]に次ぐ2番目のものとして知られている<ref name="Markoff">社会学者ジョン・マーコフは、近代的な成文国民憲法の制定を民主化を計る試金石のひとつとして、「ヨーロッパ諸国の中でアメリカの手本に最初に倣った国は、1791年のポーランドだった」と記述している。({{Harvnb| Markoff |1996|loc=''pp.121''}})</ref><ref>({{Harvnb| マディソン | ハミルトン |1987|loc='' ''}})</ref><ref>({{Harvnb| Blaustein |1993|loc='' ''}})</ref><ref>3番目は5月3日憲法の4ヶ月後に制定されたフランスの[[1791年憲法]]であった</ref>。また、第6章から第8章にわたり、議会(立法)・国王(行政)・裁判所(司法)の「[[三権分立]]」の原則および「[[法の支配]]」を明示しており、国王には立法権がない。実際の行政は国王に代わり議会の代表者である[[首相]]が取り仕切る「国王の評議会」が行い、これが現在の[[内閣]]に相当する(「[[立憲君主制]]」と「[[議院内閣制]]」)。名目上、国軍の最高司令官は国王であるが、[[大法官]](カンツェシュ)は議会の代表者である[[首相]]であると同時に国軍の制服組の最高位である[[大元帥]]([[ヘトマン]])の職を兼ねており、実質上の国軍の最高司令官は国王ではなく首相。戦争も行政の一環であると認識されている。このように、現代の基準に照らしてもきわめて先進的で、かつ完成度の高い[[民主憲法]]であった。