「本願寺の歴史」の版間の差分

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[[弘治 (日本)|弘治]]2年(1556年)、朝倉氏との間で講和成立。
 
[[永禄]]2年(1559年)、顕如、[[門跡]]に列せられる。以前より、本願寺は青蓮院門跡の傘下とみなされていたが、証如・蓮如が2代続けて九条家の猶子となったことや青蓮院門跡が一時的に空位になっていたのを機に自立した門跡になれるように朝廷に工作、顕如の外祖父・[[庭田重親]]の奔走で法相・天台・真言寺院以外では異例の門跡宣下を受けた<ref>太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3</ref>。
{{indent|下間氏が坊官、三河本宗寺・[[亀山本徳寺|播磨本徳寺]]・[[顕証寺 (八尾市) |河内顕証寺]]が[[院家]]となる。}}
{{indent|永禄6年(1563年)、[[三河国|三河]]([[愛知県]])の本願寺[[門徒]]、[[徳川家康]]と争い、翌年に和睦。これ以後、[[徳川家康]]は領国内の本願寺門徒を禁圧。解禁と成ったのは、20年後の[[天正]]11年(1583年)。}}