「マーキュリー計画」の版間の差分

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ノート:ケネディ宇宙センター第39発射施設での議論を受け「複合発射施設」→「発射施設」に変更
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Unloading Atlas Launch Vehicle - GPN-2003-00041.jpg|ケープ・カナベラルで、輸送機から降ろされるアトラス
20130717155518!Mercury-Redstone 4 booster erection 61-MR4-45.jpg|[[ケープカナベラル空軍基地第5複合発射施設]]で、発射台の上に立たされるレッドストーン
Launch Complex 14-MA-9.jpg|第14複合発射施設の発射台上のアトラス
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マーキュリー計画には弾道飛行、軌道 (地球周回) 飛行の二種類の飛行計画があった{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=xiii, 99}}。弾道飛行にはレッドストーンを使用し、2分30秒の燃焼で宇宙船を高度32[[海里]] (59キロメートル) まで上昇させ、ロケット分離後は[[放物線]]を描いて[[慣性]]で飛行した{{sfn|Unknown|1961a|p=7}}{{sfn|Catchpole|2001|pp=208, 250}}。打ち上げ後は自然に落下してくるため逆噴射ロケットは本来は必要なかったが、性能を検証するために点火された。宇宙船は弾道飛行、軌道飛行ともに大西洋に帰還した{{sfn|Catchpole|2001|pp=250, 308}}。着水後には潜水士が機体に姿勢を安定させるための浮き輪を取りつけることになっていたが、弾道飛行では準備が間に合わなかった{{sfn|Catchpole|2001|pp=250, 308}}。弾道飛行では15分間の飛行で高度102〜103海里 (189〜190キロメートル)、軌道飛行距離は262海里 (485キロメートル) に到達した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640–641}}{{sfn|Catchpole|2001|p=475}}。
 
計画の準備は主搭乗員と予備搭乗員の選抜よりも1ヶ月先行して行われた。予備搭乗員は主搭乗員に万一のことがあった場合の控えで、すべての訓練を主搭乗員とともに受けた{{sfn|Catchpole|2001|p=110}}。発射3日前、飛行士は飛行中に[[排便]]する可能性を最小限にするために特別食をとりはじめた{{sfn|Catchpole|2001|p=278}}が、発射当日の朝食にはステーキを食べるのが慣例となっていた{{sfn|Catchpole|2001|p=278}}。飛行士の体にセンサーをつけ宇宙服を着用させると、船内の環境に適応させるために宇宙服の中に純粋酸素が送り込まれた{{sfn|Catchpole|2001|p=280}}。発射台にバスで到着すると、飛行士は整備塔に付属するエレベーターでホワイトルームと呼ばれる準備室に行き、作業員に補助され発射の2時間前に宇宙船に乗り込んだ{{sfn|Catchpole|2001|p=188}}{{refn|group=n|宇宙船の中には、他の飛行士が「ハンドボール禁止」の貼り紙をするなどの悪ふざけをしていることがしばしばあった。{{sfn|Catchpole|2001|p=281}}。}}。飛行士の体をシートベルトで座席に固定するとハッチがボルトで締められ、作業員が撤退し整備塔がロケットから離れた{{sfn|Catchpole|2001|p=281}}。この後、ロケットのタンクに液体酸素が充填された{{sfn|Catchpole|2001|p=281}}。発射準備および発射後のすべての進行は、[[カウントダウン]] (秒読み) と呼ばれる工程表に沿って行われた。発射1日前に予備秒読みが開始され、ロケットや宇宙船のすべてのシステムが点検される。その後15時間中断され、この間に火工品が充填される。この後、軌道飛行の場合は発射6時間半前 (Tマイナス390) に主秒読みが開始され、発射の瞬間 (T0) の瞬間までは数が少なくなり、発射後は軌道投入の瞬間 (Tプラス5分) まで読み上げが続行された{{sfn|Catchpole|2001|p=188}}{{refn|group=n|秒読みは2分前までは発射複合施設にある防護室で制御され、その後コントロールセンターが引き継ぐ。最後の10秒の読み上げはセンターで管制業務をしている宇宙飛行士の一人が行い、すでに待機しているテレビ中継で放映された{{sfn|Catchpole|2001|p=282}}。}}。
 
[[File:Vol-Atlas-Mercury.png|thumb|upright=0.9|軌道飛行の詳細。AからDまでは発射、EからKまでは帰還および着水。]]
==地上管制==
[[File:Mercury Control crop.jpg|thumb|alt=A look inside the Mercury Control Center, Cape Canaveral, Florida. Dominated by the control board showing the position of the spacecraft above ground|ケープ・カナベラルの管制センター内部 (マーキュリー・アトラス8)]]
マーキュリー計画を支える人員は通常1万8,000人前後で、そのうち回収作業に関わったのはおよそ1万5,000人だった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}{{sfn|Unknown|1962|p=3}}{{refn|グレンの飛行のとき発射ボタンを押したのはT. J. オマリー (T. J. O'Malley) で、カーペンター、シラー、クーパーのときの発射ボタンを押したのは第14発射複合施設の施設長で発射指揮官のカルヴィン・D. フォウラー (Calvin D. Fowler) だった<ref>1963年5月15日、ゴードン・クーパーのマーキュリー・アトラスの際の報道発表による{{full|date=2015-12-22}}</ref>{{Full|date=June 2013}}。|group=n}}。その他の人員のほとんどは、世界中にはりめぐらされた宇宙船追跡ネットワークに関わっていた。追跡ネットワークは[[赤道]]上に置かれた18の基地からなるもので、1960年中には完成していた人工衛星追跡網を基礎にしていた{{sfn|Catchpole|2001|pp=124, 461–462}}。その主な役割は宇宙船からデータを収集することと、飛行士と地上の間の双方向の通信を提供することだった{{sfn|Catchpole|2001|p=117}}。各基地は700海里 (1,300キロメートル) 離れており、宇宙船がその間を通過するには通常7分を要した{{sfn|Catchpole|2001|pp=121, 126}}。また他の飛行士たちには宇宙船通信担当官 (Capsule Communicator, CAPCOM) の任務が割り当てられ、軌道上にいる飛行士との通信連絡を担当した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=360}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=479}}{{refn|group=n|宇宙船がアメリカ上空にいる間は、地上との通信はしばしばテレビで放映された。}}。宇宙船から送られてきたデータはゴダード宇宙センターで処理された後にケープ・カナベラルのマーキュリー管制センターに送られ{{sfn|Catchpole|2001|p=118}}、管制室にある世界地図の両側に表示された。地図上には宇宙船の現在位置と、緊急事態が発生した場合に30分以内に帰還できる位置が示されていた{{sfn|Catchpole|2001|p=120}}{{refn|group=n|追跡網は1980年代に衛星追跡システムが完成するまで、その後の宇宙計画でも使用された{{sfn|Catchpole|2001|p=409}}。またコントロールセンターは1965年にケープ・カナベラルからヒューストンに移転した{{sfn|Catchpole|2001|p=88}}。}}。
 
==飛行==
 
===有人飛行===
マーキュリーにおける有人飛行はすべて成功裏に終了した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640-641}}。主な医療的問題は、単純な個人[[衛生]]と飛行後の[[起立性低血圧]]が発生しただけだった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}。発射用ロケットは無人試験の段階から継続して使用されてきたため、有人飛行の計画番号は1からは始まらなかった{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=638-641}}。また2種類の異なるロケットが使用されたため、飛行計画にもMR (マーキュリー・レッドストーン、弾道飛行) とMA (マーキュリー・アトラス、軌道飛行) の2種類の名称が与えられることになったが、飛行士たちはパイロットの伝統に従っておのおのの宇宙船に独自に名前をつけていたため、MR、MAの名称は一般的には用いられることは少なかった。また飛行士らが与えた名称には、7名の宇宙飛行士を記念して末尾に"7"がつけられた{{sfn|Catchpole|2001|p=132}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=640}}。マーキュリー・レッドストーンはケープカナベラル空軍基地第5複合発射施設から、マーキュリー・アトラスはケープ・カナベラル空軍基地第14複合発射施設から打ち上げられた。時計には現地時間よりも5時間進んでいる[[協定世界時]]が使用された。
 
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マーキュリーは、今日ではアメリカ初の有人宇宙飛行計画として記念されている{{sfn|Catchpole|2001|p=cover}}。ソビエトとの宇宙開発競争に勝利することこそできなかったものの、国威を発揚し、また後続のジェミニ、アポロ、スカイラブ計画などに対しては先駆者として科学的成功を収めた{{sfn|Catchpole|2001|p=417}}{{refn|国際ルールでは飛行士は宇宙船とともに安全に着陸しなければならないと定められている。ガガーリンは実際には[[射出座席]]で宇宙船から離れ、パラシュートで着地した。ソ連は1971年に彼らの主張に文句がつけられることがなくなるまで、これを受け入れなかった{{sfn|Siddiqi|2000|p=283}}。|group=n}}。1950年代の段階では科学者の中には有人宇宙飛行の実現性を信じていない者もいて{{refn|スプートニク1号の発射をさかのぼること5ヶ月の1957年5月、後に主契約企業となるマクドネル社の社長は有人宇宙飛行は1990年までに実現することはないだろうと予言した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=119}}。|group=n}}、[[ジョン・F・ケネディ]]が大統領に選出されるまで、彼を含む多くの者は計画に疑念を抱いていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=272}}。''フリーダム7''の発射数ヶ月前、ケネディは大統領として、社会にとって大きな成功を収めるものとして{{sfn|Alexander & al.|1966|p=434}}マーキュリー計画を支持することを選んだ{{sfn|Alexader & al.|1966|p=306}}{{refn|フリーダム7の発射当日は、アメリカ中の道路で運転手たちが車を停めてラジオで中継を聞いた。後に初の地球周回飛行を行ったフレンドシップ7では、約1億人がテレビやラジオで中継を見、また聞いた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=423}}。シグマ7とフェイス7の発射の様子は、[[通信衛星]]を経由して西ヨーロッパにライブで中継された<ref name=Telstar/>。アメリカの大手3大メディアでシグマ7の発射を刻々と報道したのは2局で、残る1局は[[ワールドシリーズ]]の開幕戦を中継していた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=472}}。|group=n}}。結局アメリカ大衆の大多数も有人宇宙飛行を支持し、数週間以内にケネディは、1960年代の終わりまでに人間を月に着陸させかつ安全に地球に帰還させる計画を発表した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=363}}。飛行した6人のパイロットは勲章を受け{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=362, 435, 459, 486, 502, 584}} パレードで行進し、また2名は[[アメリカ合衆国議会合同会議]]に招かれ演説した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=435, 501}}。女性を除外した飛行士の選考基準を受け、独自に飛行士を選ぶ民間のプロジェクトも立ち上がった。そこでは13名の女性飛行士が選ばれ、彼女たちはマーキュリー計画で男性飛行士が受けたテストをすべてクリアし{{sfn|Catchpole|2001|p=447}}、メディアによってマーキュリー13と命名された{{sfn|Catchpole|2001|pp=447–448}}{{refn|このことは当時のソ連の指導者[[フルシチョフ]]に、1963年6月16日に史上初の女性宇宙飛行士[[ワレンチナ・テレシコワ]]を飛行させるきっかけを与えた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=506}}。|group=n}}。このような努力にも関わらず、NASAは1978年にスペースシャトル計画で新たに飛行士を選出するまで女性飛行士を誕生させなかった{{sfn|Catchpole|2001|p=448}}。
 
1964年、ケープ・カナベラルの第14複合発射施設の近くで、計画のシンボルと数字の7を組み合わせた金属製の記念碑が除幕された<ref name="Monument" />。1962年、[[アメリカ合衆国郵便公社]]はMA6の飛行を称え、マーキュリー[[記念切手]]を発行した。有人宇宙飛行を描いた[[切手]]が発行されるのはこれが初めてのことであった<ref name="GlennStamp" />。この切手は1962年2月20日、アメリカ初の有人地球周回飛行が行われたその当日、フロリダ州ケープ・カナベラルで発売された<ref name="GlennStamp" />。[[2011年]]5月4日、郵便公社は計画初の有人飛行''フリーダム7''の50周年の記念切手を発行した<ref name="ShepardStamp" />。映像表現においては、同計画は[[1979年]]の[[トム・ウルフ]]の小説『[[ライトスタッフ]]』を元に[[1983年]]に製作された同名の[[映画]]で描写されている<ref name="IMdBRightStuff" />。2011年[[2月25日]]、世界最大の技術専門家協会である[[IEEE]] (Institute of Electrical and Electronic Engineers, アイ・トリプル・イー、『電気電子技術者協会』の意) はマクドネル社の後継企業である[[ボーイング]]に、マーキュリー宇宙船を開発した功績により「Milestone Award for important inventions (重要発明品記念賞)」を授与した<ref name="BoeingMedia" />{{refn|ボーイングはこの賞を、マーキュリーの先駆的な"航法および制御装置、[[オートパイロット]]、速度安定および制御、[[フライ・バイ・ワイヤ]]システム"などを開発した功績により受賞した<ref name="BoeingMedia"/>。|group=n}}。
 
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File:Project Mercury Pad14.jpg|14番複合発射施設のマーキュリー記念碑。1964年
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===発射施設===
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File:Launch-complex-14.png|発射直前の第14複合発射施設 (整備塔は移動済み)。発射準備作業は防護室 (blockhouse) で行われる。
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