「ゴットフリート・ライプニッツ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m →‎関連項目: +wikiiquote
Niwaume (会話 | 投稿記録)
リンク修正
11行目:
| birth_place = {{HRR}}・[[ザクセン選帝侯領]][[ライプツィヒ]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1646|7|1|1716|11|14}}
| death_place = {{HRR}}・[[ハノーフブラウンシュヴイク=リュネブルク選帝侯領]][[ハノーファー]]
| school_tradition = [[合理主義哲学]]<br />モナドロジー、[[唯心論]]
| main_interests = [[形而上学]]、[[認識論]]、[[存在論]]<br />[[自然哲学]]<br />[[科学哲学]]<br />[[数学]]、[[論理学]]<br />[[倫理学]]、[[人間学]]<br />[[弁神論]]、[[神学]]<br />[[東洋哲学]]、[[中国哲学]]
66行目:
ライプニッツは[[三十年戦争]]の後遺症がまだ残っていたドイツという後進国出身の悲哀を味わわなければならなかった。父はライプツィヒ大学の哲学教授で彼に幼いころから読書を教え、彼も14歳で同大学に入学し、2年後に卒業するが、当時のドイツの大学は[[イギリス]]や[[フランス]]に比べて立ち遅れていた。従ってライプニッツの理論を正当に理解・評価できる人はあまりいなかった。
 
ライプニッツが外交顧問、図書館長として仕えた[[ハノーフブラウンシュヴイク=リュ王国ネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯]][[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]妃[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|ゾフィー]]と、その娘[[ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファー|ゾフィー・シャルロッテ]]([[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]妃)と、エルンスト・アウグストとゾフィーの孫[[ジョージ2世 (イギリス王)|ゲオルク・アウグスト]](後の[[イギリス]]王ジョージ2世)の妃の[[キャロライン・オブ・アーンズバック|キャロライン]](ドイツ語名はカロリーネ・フォン・アンスバッハ)らは、この哲学者を尊敬した。1700年に王妃ゾフィーの招きで[[ベルリン]]に行き科学アカデミーの創設に参加して、初代総裁に就任している。しかし5年後に王妃ゾフィーが肺炎で死去すると、ベルリンはライプニッツにとって居心地のいい場所ではなくなってしまった。
 
ハノーファーでも[[1714年]]に選帝侯妃ゾフィーが死去し、息子の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが同年にイギリス王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]となってイギリス国王を兼任すると、キャロラインも皇太子妃となってイギリスに移住した。ジョージ1世はライプニッツを煙たく思っていたのでイギリスに連れて行くことはせず、ハノーファーに残された。ライプニッツは政治的な支援者を失い、周囲の空気は冷たくなった。晩年のライプニッツは侯家の家史編纂というつまらない仕事に携わり、他には自分を理解してくれる外国の学者や友人とひろく文通をかわすだけであった。その文通者は国内外あわせて千人を超えていた。