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| updated = 2017年11月20日
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'''パーヴォ・ヨハンネス・ヌルミ'''({{lang-fi|Paavo Johannes Nurmi}}、{{IPA-fi|ˈpɑːʋo ˈnurmi|-|Fi-Paavo_Nurmi.ogg}}、[[1897年]][[6月13日]] - [[1973年]][[10月2日]])は、[[フィンランド]]の[[中距離走]]と[[長距離走]]選手。20世紀初頭に長距離走をほぼ支配したことから、[[フライング・フィン]]と呼ばれた。生涯を通して[[1500メートル競走]]から20キロメートル競走まで合計22の[[陸上競技の世界記録一覧|公式世界記録]]を作り、[[夏季オリンピック]]に3回最中出場して合計[[金メダル]]9個、[[銀メダル]]3個を獲得した。その絶頂期には[[800メートル競走]]以上の距離で121レース無敗であり、14年間の運動選手生涯において{{仮リンク|クロスカントリー競走|en|Cross country running}}と[[10000メートル競走]]で無敗を維持した。
 
労働者の家族に生まれたヌルミは12歳に学校を中退して家計を支えた。[[1912年ストックホルムオリンピック]]における[[ハンネス・コーレマイネン]]の勝利がもたらしたオリンピック熱に感銘を受けて厳しいトレーニング計画を開始した。ヌルミは兵役の最中に頭角を現し、[[1920年アントワープオリンピック]]の訓練中に{{仮リンク|陸上競技のフィンランド記録一覧|en|List of Finnish records in athletics|label=フィンランド記録}}を作った。[[5000メートル競走]]で銀メダルを獲得した後、10000メートル競走とクロスカントリー競走で金メダルを獲得した。1923年、ヌルミは史上初、[[1マイル競走]]と[[5000メートル競走]]と10000メートル競走の世界記録を同時に保持する選手であり、2017年現在まで2人目は現れていない。[[1924年パリオリンピック]]で再び1500メートルと5000メートルの世界記録を作ったが、この2試合の間は1時間しかなく、ヌルミは2時間内に金メダルを2個獲得した。彼はパリの酷暑にまるで意に介さないように、金メダルを合計5枚獲得した<ref>{{Cite web|title=Paavo Nurmi|url=http://www.olympic.org/paavo-nurmi|website=olympic.org|publisher=[[国際オリンピック委員会|International Olympic Committee]]|accessdate=11 June 2015}}</ref>。しかし彼はフィンランド当局に10000メートル競走への参加を拒絶され(代わりに[[ビレ・リトラ]]が参加、金メダルを獲得した)、そのことを苦々しく思っていた。
1925年の長いアメリカツアーの後、ヌルミは怪我とモチベーション低下に悩まされ、[[ビレ・リトラ]]や[[エドヴィン・ヴィーデ]]が強敵として立ちはだかるようになった。[[1928年アムステルダムオリンピック]]では10000メートル競走の金メダルを再び獲得したが、5000メートル競走ではリトラに、[[3000メートル障害]]では[[トイヴォ・ロウコラ]]に敗れて銀メダルとなった。彼は続いてさらに長距離な競走である[[1時間競走]]と25マイル競走に挑み、世界記録を打ち立てた。彼は憧れのコーレマイネンと同じように選手生涯の最後をマラソンの金メダルで飾ろうとしたが、[[国際陸上競技連盟]]の委員会は[[1932年ロサンゼルスオリンピック]]の直前にヌルミがアマチュアかどうかに疑問を呈し、オリンピック開幕式の2日前にヌルミの参加資格を取り消した。これにより{{仮リンク|スウェーデンとフィンランドの関係|en|Finland–Sweden relations}}が緊張、反国際陸連の風潮が巻き起こった。結局、ヌルミをプロ選手とする宣言はついぞ発されなかったが、ヌルミの資格取り消しは1934年に確定、彼はそのまま引退した。
 
その後、ヌルミはフィンランド走者のコーチになり、[[冬戦争]]中にはフィンランドのために募金し、{{仮リンク|ハーバーダッシャー|en|Haberdasher}}、建築の下請け、{{仮リンク|株式売買人|en|Stock trader}}として働き、やがてフィンランドの大資産家になった。[[1952年ヘルシンキオリンピック]]では{{仮リンク|最終聖火ランナーの一覧|en|List of people who have lit the Olympic Cauldron|label=最終聖火ランナー}}を務めた。ヌルミの速さと性格のつかみどころのなさにより、「ファントム・フィン」({{lang|en|Phantom Finn}})などのあだ名をつけられた。一方、彼の功績、トレーニング法と走法はそれ以降の中長距離走者にえいきょう影響あたえた。常に[[ストップウオッチ]]をもって走ったヌルミは均一速度走法と分析的なトレーニング法の発明者とされ、また競走をメジャーな運動にした人とされている。
 
== 幼少期 ==
3,829

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