「チェルノブイリ原子力発電所事故」の版間の差分

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Sinhako (会話 | 投稿記録)
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事故から20年後の一部報道の中には、暴走中に「[[地震|直下型地震]]」が発生したことが爆発につながったとするものもあるが、[[京都大学]]の[[今中哲二]]は、他の1 - 3号炉に異常が無かったこと、付近の住民が地震についての証言をしていなかったことなどから、[[地震計]]に記録されているとされるその振動は、4号炉の爆発そのものによって引き起こされたものであると反論している。
 
事故の前4号炉は198312月21日に完成したが、その翌日の12月2622日の原子力産業の記念日に合わせて4号炉を完工するために、耐熱材質を不燃性材質から可燃性材質へと変更し施工を強行したことも放射性物質の拡散拡大の原因のひとつに挙げられる。
 
2004年に[[イギリス]]・[[英国放送協会|BBC]]と[[カナダ]]・{{仮リンク|ヒストリー・テレビジョン|en|History (Canada)}}により製作された[[再現ドラマ]]{{仮リンク|ゼロ・アワー (2004年のTVシリーズ)|en|Zero Hour (2004 TV series)}}シーズン1第1話「チェルノブイリの災害(Disaster at Chernobyl)」によると、実験当時の現場の技術責任者には[[RBMK-1000]]型原子炉の特性について熟知している者が誰もいなかったとされている。所長の{{仮リンク|ヴィクトル・ブリュハーノフ|ru|Брюханов, Виктор Петрович}}は[[火力発電所]]や[[蒸気タービン]]の建設でこそ実績があったが、原子力発電所については経験が無く、4号炉建設当時には前述の材質変更を強行して記念日前の完工を達成し出世した人物であった。技師長の[[:en:Individual involvement in the Chernobyl disaster#Nikolai Fomin|ニコライ・フォーミン]]は原子力については[[通信教育]]で学んだのみで、実際の現場の指揮はフォーミンの部下で副技師長であった{{仮リンク|アナトリー・ディアトロフ|en|Anatoly Dyatlov}}に一任していた。そして事故当時の現場の最高責任者であったディアトロフも、原子力を独学で習得して技術畑を歩んできた苦学者ではあったものの、RBMK-1000の特性自体は理解しておらず、晩年のインタビュー映像では「(RBMK-1000型の)原子炉の特性を事前に知らされていれば、あのような実験は決して行わなかった。」と述懐する有様であった<ref name="Zero">[https://www.youtube.com/watch?v=cJUssWx1AwE Disaster At Chernobyl] - [[ディスカバリー・チャンネル]]、[[Youtube]]</ref>。
 
=== 事故の経緯 ===